石塚弘の受難 . 3

永野毒見済み特製麦茶の冷たさをしみじみと味わう石塚の正面、真剣に碁盤を見つめていた千寿がその大きくまん丸な目を見開いた。

「あっ、忘れてた!」

驚きに焦りを混ぜている千寿にこちらも少し慌てながら永野が話しかける。

「どうした?何を忘れてたんだ千寿?」
「おっちゃん!どうしよう…お母さんに卵買ってきて、ってお使い頼まれてたんだよ」

どうしよう、どうしよう、と頭を抱える千寿。石塚が落ち着いた様子で、

「今すぐお店に行けばいいじゃないか。そんなに悩むことじゃないよ」

と諭すが、千寿は大きく首を振った。

「それじゃ駄目なんだよ、石塚のにいちゃん。今日の十一時までの値引きの時間に買って来いって言われててさぁ…あーどうしよ…」
「タイムセールというやつか…厄介だな」

石塚が縁側から居間にころりと体を転がして時計を覗くと、時刻は十時五十分。
あと十分で山を降り、島の中でも中心部の商店街通りまで走るのは子供の足では不可能に近い。体を起こして迷わず石塚が立ち上がる。

「千寿、自転車で送るよ。必死で漕げば間に合うさ。…永野、そこの茶箪笥の二段目に入ってる自転車の鍵、取って」

言いながらも縁側に備えてあった靴を履こうとする石塚に永野は先ほどの千寿より慌てて、

「いっ石塚さん、外に出ては駄目です!危険です!」

遠慮なく石塚のシャツの襟を掴む。

「そうも言ってられんだろう。幼い子供が困ってるんだぞ?」

石塚の言葉に永野が横を向くと、縋るような千寿の目があった。

「頼むよおっちゃん~…」

ぐうう、と変な唸り声をあげて眉間に皺を寄せ数秒悩んだ永野は決心したように茶箪笥の三段目から鍵を引っ張り出して(石塚が「あれ?二段目かと思ってた」とどうでもいい感想を漏らした)
律儀にも縁側からでなく正面玄関から外に出ると、ぼろの自転車に跨り縁側に向かって叫んだ。

「千寿、後ろに乗れ!」
「おっちゃんかっこいいじゃん♪」
「っ…下らないこと言ってないで早く乗れっ!」
「あははっ!おっちゃん照れてるー♪」
「照れてないっ!」

一連のやりとりのあと千寿が自転車の後ろに飛び乗り、石塚に手を振った。

「またね、石塚のにいちゃん!」
「ああ。いつでも遊びに来い千寿。あと、済まないな永野」
「…あなたを外に出すくらいなら自分が行った方がマシです。石塚さん!家中の鍵を全部閉めて大人しく待っててくださいよ!すぐに帰ってきますから!!」
「はいはい」

石塚が受け流すとむすっとした顔をしたが、後ろに乗る千寿の存在を思い出し全速力で永野は自転車を漕いでいった。
「ひゃー!おっちゃんはやいー!」と楽しそうな千寿の声が遠ざかっていくのを聞いた後、石塚はふと寂しくなった。
一気に家の中が静かになってしまった。
ふぅ、と溜息をこぼす。気を紛らわすために、石塚は家中の鍵を閉めて回ることにした。

「これも不幸の内に入るんだろうねぇ…」

さみしい。


一方その頃永野・千寿組みは信号待ちをしていた。車など通らないに等しいのに。

「おっちゃん!こんな信号無視してよ!!間に合わないよー!」
「交通ルールは守らなくてはいけない!」
「あーもう!おっちゃんは頭かったいなぁ~…」

後ろからぽかぽか永野の頭を叩きつつも千寿は感謝した。自転車の二人乗りも禁止だということを焦っている永野のおっちゃんはすっかり忘れている。

「おっちゃんじゃない!第一石塚さんは『にいちゃん』で何で俺は『おっちゃん』なんだ!」
「だっておっちゃん老けてるし~」
「石塚さんの方が見た目に老けてるだろう!…いや、あれは老成しているというのか。内面がこう…外側に滲み出ているというか…それも美点のうちで…」
「おっちゃん…」

無意識で惚気はじめた永野に呆れつつも、その肩に顎を乗せて千寿は大人しく信号を待った。