石塚弘の受難 . 2

…暑い。

こういう時に限って蝉の鳴き声が無性に暑苦しさを増幅させる感さえ覚える。
ただでさえ日差しが当たって暑い縁側で横になる…というよりは、半ば死体のように倒れ込みぴくりとも動かない石塚。
今日は嶋が家に来てくれると約束をしていた日だった。
なので来客がくると分かっている時はなるべくここにいるようにしている所為で、今は永野の言う別の意味での死の危険に晒されている。

用が済んだのか、今日は兎に角護衛をするといって聞かなかった永野が戻ってきた。
黙ってそっと湯飲みを差し出す。
既に顔を向ける気力もなくぐったりとしている石塚に怪訝そうな顔を向けながら永野は口を開いた。

「大丈夫ですか?無理しないでくださいよ?」

これが大丈夫に見えるか…?

一応永野に手を振り応えながら石塚は小さく溜息を吐いた。
真横には湯気を上げる白湯と睨み付けるかのように監視…じゃない、護衛をする永野。
ただでさえ暑苦しい日に、更に暑苦しい永野のまとわりつくような視線が熱源のように思えて仕方がない。
こうなったら意地でもふて寝を決め込むか。本気で思案する。
…いや、駄目だ。冷静に考えろ。
普通に考えてこのままの状態でいる時点で熱射病になってしまうだろう。頭も暑さでどうにかしているようだ。

そうだな。こういういつにも増して暑い日は桶に水を入れて足を浸すと良い。
しかし、先刻トイレに行こうと立ち上がった石塚に「水難にでも遭ったらどうするんですか!少しは自覚を持ってください!!」
といつにない剣幕で怒鳴った永野を思い出し、石塚はかぶりを振った。
トイレで水難?便器に頭を突っ込むとでも言いたいのだろうか。冗談じゃない。
…ひょっとしてこいつの頭も暑さでどうかしてしまっているんじゃないだろうか。

「石塚さん」

テレパシーか何かか?といかにも機嫌の悪そうな声に一瞬肩を跳ねさせた石塚が辛うじて「…ん?」と言葉を返すと、背後で永野が立ち上がった。

「トイレ行ってきます。直ぐに戻りますから、くれぐれもここを離れないようにしてくださいよ」
「…了解」

刑務所じゃないんだから、何をするにもわざわざ申告するのは止めてくれと。
普段の流れで突っ込む気力すら今の石塚には残っていなかった。
正午までまだまだ時間がある。午前中でこの状態では本当に悪い予感も冗談では済まない。

「…さて、と」

永野の気配が消えたのを見計らって、石塚はおもむろに立ち上がると裏手へ向かって走り出した。

なんとか上手く逃げられたは良いが、これからどうするか。
永野をなんとか言いくるめて行水をする方法…。

考えては見たものの、はやり俄な冷静さよりも暑さが勝り、とりあえず準備をしてからでいいかという結論に至る。
一度壁に張り付いて辺りを伺う…誰も居ないな。
納屋の引き戸に手を掛け一息に開け放つとむっとした臭気が鼻を突いた。
躊躇った後、半歩足を踏み出して物が満載されている小屋の中を漁る。
元々他人の所有物であったのは分かるが、人が入る隙間もないほど小屋の中は良く分からない濃作業具やその他諸々で一杯だった。

「流石にほとんど開けたこと無いだけあって凄いことになってるなあ……あった」

埋もれていた木桶を見つけ引っ張り出そうと掴んだ途端、積み重なった荷の山が雪崩のように崩れかかってきた。
咄嗟に身を捩って直撃を免れる。しかし、ただでさえ容量満載だった小屋からは一体どれだけものが詰まっていたのか。
直撃は回避したものの結局雪崩の下敷きになる。がっくりと頭を垂れた。

ふと視界の中でなにかが光ったような気がして、元自分がいた場所を見る。
そこには薪を割るのにでもつかったのだろう。…何故か抜き身のままの斧が深々と固い土に突き刺さっていた。
もしあのままで居たらと思うと…流石にぞっとして、額から汗が流れるのが分かった。どっと疲れが込み上げる。
石塚弘、父島にて荷物雪崩に遭い戦死。

丁度そこへ凄まじい物音を聞きつけた永野が本日二度目の死体になっていた石塚の姿を見つけ、さっと顔を青ざめさせる。
急いで駆けつけると、ぐったりしているその身体を埃っぽい山から引きずり出した。

「何してるんですか石塚さん!!」
「いや…何してたんだろうな、俺は」

そうだ、本当に何をしていたんだ。
永野のあまりにも行きすぎた言動に呆れ、本当に今日は危ない日だという意識がいつのまにか薄れていた。

「だからあそこから離れるなと言ったのに…なんで私の忠告を聞かないんですか!」
「永野…」

確かに俺が悪いのも認めよう。
でもこんな真夏日に熱湯を飲ませるなんてのも正気の沙汰じゃないと思うぞ…?
そう口を開こうとしたとき、永野の背後から不意に影が落ちた。
永野に上体を支えられたままのため阻まれて姿までは見えない。
しかし気付いた永野が声を上げる前にそれは呵々と笑い声を上げた。

「おっちゃんたち、こんなところで何してんの?」
「千寿…!」

仁王立ちで首をひねる千寿の疑問に、永野は名を呼ぶ以上のことは言えなかった。
そうだろうな。実際災難が降りかかっている俺自身ですらこの状況の説明がつかない。

「…まぁ、いいけどさ。伝言があってきたんだけど」
「伝言?」
「嶋って人から。今日は突然補習授業とかで一日走らされるから来れなくなったって。偶然学校の前に通りかかったときに頼まれたんだ」

やっと永野の腕を借りて立ち上がった石塚は、それを聞いた途端すっと気が遠のき手近な永野の肩にしがみついた。
そのまま顎を肩にのせふう、と一息吐く。
…今日のは厄日とかそんな生温いもんじゃない。下手をしたら死ぬかもしれないな、と。
赤くなって耳元で叫ぶ永野の声を意識の片隅に追いやり、ひとりごちた。



まだ太陽は頂点に登り切っていなかった。
それなのにどこまでも無慈悲な夏の暑さは加減なく空気を熱する。
それを凌ぐ術はここにない。扇風機すらただ空気を掻き回している状態で、これを改善するには根本的な処置が必要だな、と石塚は目の前の碁盤を見詰めながら思案した。

嶋が来ないことが分かったため、今は少し縁側の少し奥に引っ込んで千寿の相手をするため将棋盤の代わりに碁盤を持ち出し五目並べをしていた。
中々白熱した戦いを繰り広げているそこへ、永野がぶつぶつと不平を垂れながら麦茶と白湯を持ってくる。

「なんだか厄日を良いことに上手く使われている気がするのですが…」
「何を言う永野。お客様にお茶を出すのは当たり前じゃないか」

永野が来たことにも気付かず真剣な眼差しで碁石とにらめっこをしている千寿を見て、永野は苦い顔になった。

「それはともかく、なんでよりにもよって千寿が…っとお!?」
「ちょ、なにしてんだよおっちゃん…!」

余所見をしていた永野が足下の碁盤の角に親指をぶつけ、苦悶の表情のままバランスを崩す。
大きくぶれたお盆から麦茶と、ぐつぐつと煮立っている熱湯が驚愕したままの石塚へと弧を描いて飛んだ。
…どうやら千寿を避けたように見えたが、それは俺なら危険が降りかかっても構わないってことか─?


一時間後、やっとのことで石塚は冷えた麦茶を口にする権利を得た。
永野が頑として毒味役を譲らなかったことが、なんだか役得だなと。それだけが唯一のささやかな幸福だった。