人生は長い。残念だがどうにもこうにも不幸な日というものが存在する…。
軍人に必要な才能の「勘」で石塚は目覚めた瞬間に寒気がするほどの「嫌な予感」を感じ取った。
生死に関わる不運はあの忌々しい獣達との戦いで使い果たしたつもりだ。そんなにも大げさに考えることはないのだが…。
「やはり、いい気分ではないな…」
「石塚さん…?」
一人呟くと隣の布団の永野が瞼を眠そうにしかめつつ起き上がってきた。目の下の隈が今日も盛大に広がっている。
「何か懸念でも?」
朝から腕組みをして唸っている石塚を心配そうに見やる。
微笑もうと努力したが失敗し、余計に疑惑の眼差しを向けられた石塚は正直に自分の『嫌な予感』について話した。
「まあ、考えすぎだと思うけどな」と締めくくって。
そう、気楽な感じに話したのに。
「なんでもっと早く言ってくれないんですか!!!!」
ばさぁっと薄い掛け布団を跳ね上げ勢いよく永野が起き上がった。その大振りなリアクションに石塚の瞳が少しだけ開かれる。
「え、ちょっと、どうしたんだい?」
「どうしたもこうしたもありますか!ほら、早く起き上がってください!!」
「え?永野?」
戸惑うしかない石塚を廊下へごろりと押し出して手際よく押入れに布団を仕舞い込むと、永野はそのままの勢いで石塚の手を引っ張って食卓の椅子へ座らせた。
「今日の朝食は自分が作ります。文句はありませんね」
なんとなく膝に両手を揃えてお行儀よく呆然としていた石塚はその一言で我に帰り、奇妙に焦ってエプロンを着ける永野に声をかける。
「毎日作ってるのは永野だから文句なんてないよ。じゃあ俺は皿でも出すか…」
「動かないで下さい!!!」
カツン!
いそいそと食器棚に向かおうとした爪先の寸前に狙い違わず何か銀色の物体が飛んできた。…おたま?
ピンクの花柄エプロンを完全装備した永野が赤い取っ手のついたそれを拾い上げるとぴしゃりと石塚の鼻先へ突きつけた。
「これは何のマネだい永野…」
銀色のおたまが驚き半分苦笑半分の石塚の微妙な表情を映している。
永野の素っ頓狂な行動にはいつまで経っても慣れない。いや、またそこが面白いというか可愛いというか。
「あなたは優秀な上官です」
「朝からお褒めの言葉をありがとう…?」
首を傾げる石塚に構わず永野は喋り続ける。
「ですから自分はあなたの『野生の勘』を信じています」
「は、はぁ…?」
珍しく石塚が押され気味な会話だ。永野はまだ喋る。
「何でそんなだらしのない顔をしてらっしゃるんですか。『嫌な予感がする』と仰ったのはあなたなんですから、もっと自分の身を大事にして下さい。不用意に皿などを取りに行って滑って転んでぶつかって頭の上に食器が降って来たらどうするつもりだったんですかあなたは」
一気にまくし立てるとふー、と息をついて石塚に背中を見せて調理に取り掛かった。
かと思うと電流を流されたかのように動きを止めまたくるりと石塚に向き直る。
「今日一日、食物を口に入れないで下さい」
「…………」
もうなんだかわけがわからない。どうなってるんだながの。せつめいしてくれながの。
と目で訴えると永野は眉の間に皺を寄せた。
「まだわからないんですか。今日のあなたには何が起こるかわからないんです。毒の入った食べ物を摂取してしまう可能性があるんです」
「えーと…」
「まだわからないんですか!その頭は飾りですか!?自分はあなたの『嫌な予感』を信じました。よって、今日の自分は全力であなたを守り通さなくてはいけないのです。ああでも水くらい摂らないと干乾びてしまいますね…しょうがない、煮沸消毒した白湯をお飲み下さい」
その言葉を最後に永野は振り返らなくなった。真剣な眼差しで火にかけたやかんを見つめている。
朝から熱湯を飲まされるがまあ永野の作ったものならなんでもいいやと、もはやどこか思考が麻痺している自分を自覚しながら石塚は思った。
ああ…本日の父島の不幸は俺の独り占めだな。と。