夏の日にさよなら . 6

二人を待ち受けるようにして一斉に寄ってきた一同の勢いに押されながらも、石塚は何事もなく退院してきた旨を伝えた。
一通りの話は男先生や見舞いに来る永野から聞いているはずだが、本人の口からそれを聞いてようやく安心したらしい。
しばらくの後、散り散りに作業へ戻っていく全員を見届けながら、石塚は一人ずつ簡単に作業の進捗を聞いて回り、必要なものに指示を出すと、海辺から少し離れた木の下に寄りかかって腰を落ち着けた。
ようやく運ばれてきた機材の設置が終わったらしい。そこに人数が集中している。
大げさな機械に囲まれた望遠鏡のレンズを覗き込みながら計器を弄る田上の隣で、蔵野がじっと空を見上げていた。
幾らかの知識などが要求される作業には関われない年少組も、細かな雑用に半ば遊びながら取りかかっている。

「こんなところで、石塚さんもサボりですか?」

どこからかやって来た永野が、ペットボトルを差し出した。気を利かせてくれたらしい。
作業の途中なのか、普段は規則だとか言ってかっちり着込んでいる上着を脱いで、袖をまくり上げていた。

「人聞きの悪いことを言わないでくれと言いたいところだが…まあそんなところだ」
「ひょっとして、僕みたいに早々にお役御免ですか?」
「誤解しないでくれよ…仮にも、天文観測班の班長だぞ?一通りのことは手伝えるさ。けど、島からも離れてかなり日を置いた僕に比べたら、皆の方がこれに関しては一日の長があるみたいだ。だから、全部任せることにした」
「なるほど…もっともらしい話ですね」
「人が真面目に話してるのを茶化すのはどの口だ?」
「すみません、冗談です」
「…分かってるよ」

そうこうしているうちに、辺りはすっかり暗くなっていた。
周囲には人家などもなく、まばらな街灯が乏しい光源を演出している程度で、持ち寄った懐中電灯の明かりがそこかしこから見受けられる。

「みんな、折角思い出作りにここまでやるんだから新星を見つけようって盛り上がってましたよ。あの蔵野も珍しく積極的に準備に参加してましたし」
「目が良いからな、蔵野は。もしかしたら本当に星を見つけるかもしれない」

少し遠いところから聞こえる喧噪に耳を傾けてみる。
ふと、息をする度に抜ける潮の香りが妙に懐かしいものに思えた。

「石塚さん…一つ言ってないことがあったんですが、いいですか」
「なんだ、改まって」

頭を傾けて永野に顔を向けると、目があった途端に逸らされる。
言いづらいのか、そのまま目線を泳がせながら永野は言葉を継いだ。

「…その、入院、ほんの数日でしたけど、僕と先生の他に誰も見舞いに来ませんでしたよね?」
「ああ…言われてみれば、そうだな。でも、みんな準備があったんだろう?何分急な事だったからな。今日に間に合わせるのもギリギリだったはずだ」

誰も顔を見せないことを全く考えもしなかったわけではないが、正直なところ一人でゆっくりできる時間は悪いものではなかったし、永野が一日の報告にかこつけて要らぬ世話を焼きに来てくれることに満足していたせいか、あまり気には掛けていなかった。
それとなく気にしていない風に言ったつもりだったが、永野は気が咎めるらしく顔をしかめている。

「すみません。みんなお見舞いに行きたがたんですけど、僕がとめたんです」
「うん、それは仕方がないことで…」
「ですから!…その。違うんです、そうではなくて…」

勝手に赤くなったり叫んだりと、一人で盛り上がっている永野に置いて行かれたような心持ちでしばらく様子を見ていると、なんとか表では平静を取り戻した永野が深く息を吐いた。

「……口にするのも恥ずかしいので、その、察してください。…できるだけ好意的な解釈で」
「ふむ、回りくどいな」
「分かるでしょう」
「独占欲を出されるのは悪い気はしないけど、…公私混同もいいところだな」
「た、たまには良いじゃないですか!!そういうことがあっても!」
「だから、悪い気はしないと言ってるんだ」
「…また僕で遊んでるでしょう!」
「君が一人で翻弄されてるだけだろう」

それきり永野は黙りこくってしまった。
どうやら言われて熱くなっているのに気付いたらしい。
大声で気付いたらしき数人がこっちを見ていたのには気が回らなかったようだが。大方、痴話喧嘩か何かだと思われているに違いない。
しかし、もしそれに永野が気付いていたら、今日はもう口を利いてくれなかったかもしれない。
そう考えてみて、少しからかいすぎたかと言葉にはしないまでも内省する。
少しなだめてみようと、顔を空に向けたまま何気なく永野の手を自分のそれで覆った。
何か言いたげな視線を感じるが、わざと気付かない振りをして軽く力を込める。

「今日は風が出てるな」
「だから、なんです」

その固い声があまりにも予想通りすぎて、ふと弛みそうになる口元をなんとかこらえる。

「風の強い日は大気が揺らいで、星がよく瞬いて見えるんだ」

相づち代わりに永野が首を起こしたのが分かった。

「…確かにそんな気がしますね。早速、天文観測班班長の面目躍如ですか」
「肩書きの割に、披露できるのがうんちくだけで申し訳ないけどね」
「良いじゃないですか。口先だけというのが如何にも、この島で初めて顔を合わせた時みたいで」
「…どういう意味だ、それは」
「あ、石塚さん。あれって夏の大三角ですか?」
「話を逸らさないでくれ。…あと違う。それじゃない。もう少し横のあれがアルタイルだ」

軽くため息をついて永野の指差す手の角度を少し修正してやると、ああ、と納得するような声が漏れた。

「なるほど。これだけ無数に見えると、どれがどれだか分かりにくいですね」
「これだけの数は本土じゃそうそう見られないからな。あと、どれだけ多く見えても肉眼で見ることのできる数は精々三千個くらいだそうだ」
「蔵野なら倍は見えそうですね」
「いや、八等星まではいけるとか言ってたから、もっと見えるだろうな」
「そんなにですか」

若干の感嘆を込めて呟く永野に、あれは特殊な例だと一言付け加えるのを忘れない。

「蔵野じゃなくても、ここは環境が良いからもう少し見えるはずだ。望遠鏡なら天の川もはっきり見えるんじゃないかな」
「あの辺ですよね?肉眼でも十分見えますけど…」
「いや、もっとはっきり見える」

昼間の茹だるような暑さが嘘のような涼しい風が、小波と共に行き来している。
絶え間なく続く潮騒が耳の奥で殷々と鳴り響いているような感覚を覚えるが、それでいてここは静かな場所だと思えるのが不思議だった。

「…星の海と言われるくらいだからな。こんな何もない島でも、これだけは自慢できる」
「言い得て妙ですね」
「全くだ。誰が言い出したんだが知らないが、上手く言ったものだよ」

ふと、握った手の感触からこの間の夢が思い出され、石塚は無意識にゆっくりと息を吸った。
胸の空くような潮の香りが身体を通り抜けていく。自分にとっての平穏は、きっとこの香りなのだろう。
ここが僕の居場所だと、最後に帰る場所だという感覚が呼び起こされ、改めてそれを認識させられる。
無意識に手に力を込めていることに気づき咄嗟に離そうとしたときも、永野は何も言わなかった。
今日は妙に空気を読んでいるなと思う。気になって顔を向けると、同じようにして石塚を見ていたらしい永野が目を逸らした。

「どうしたんだ?妙にしおらしいじゃないか」
「…どういう意味です?まるで僕が普段から騒がしいみたいじゃないですか」
「その通りだろう。終始君のわめき声が聞こえないと、僕の生活に張りがなくなる」

何の根拠もなく、ただいつものことだという憶測から永野のしどろもどろの反論を待っていたのだが、反応がないという予期しない事態に若干の戸惑いを覚える。
永野はどこか呆けたような面持ちで石塚を見ていた。
どこか具合でも悪いのかと声を掛けようとした時、石塚さんと呼ばれる。
どうやら我に返ったついでに石塚が何を思ったのか察したらしい。何でもないと首振って、改まったように身体ごと向き直った。
何事かと思わず後退る石塚に、永野は至極真面目な顔で口を開く。

「貴方には僕がどうしても必要ですか?」
「…何を言うかと思えば、急にどうしたんだ?」
「余計なことは考えずに答えてください。返答の如何によっては、僕も進退を考える必要があります」
「進退って…」

左遷という現状より更に退る所があるのか自分に問いかけようとして、虚しくなって止めた。

「これは僕の問題です。貴方は正直に言えばそれでいいんです」
「正直にと言われてもなあ」
「どうなんです?それとも正直には答えにくい事なんですか?」

執拗に食い下がる永野の意図が掴めず、困り顔で頬を掻いた石塚だったが、特に逡巡することもなく思考をついて出たものをそのまま口にした。

「僕が一瞬たりとも、君を必要ないと思ったことがあると思うか?それとも、僕の気持ちまで疑うのか?」

多少語気を強めたのは反撃のつもりだったのだが、永野はどこか満足したように口元を緩めて見せると、そうかと何度か反芻するように唱えた。
結局なんだったんだという疑問を投げかける前に、どこか吹っ切れたような永野が神妙な顔つきで頷いた。

「僕にも、貴方が必要です」
「………はあ」
「…何ですか、その顔は」
「…その、本当に?」
「武士に二言はありません」

思わず問いかけると、あまりにもずれた熱意が返ってきた。
永野から自発的にそれらしい言葉を聞いたのはこれが初めてかもしれない。自分でも、頭が真っ白になるのは仕方がないと思う。
そんな石塚を知ってか知らずか、永野は咄嗟にどこかしらを掴もうとした石塚の手をかわして立ち上がった。
一二歩前へ行く永野を目で追うと、その先の何人かが此方へ向けて声を掛けているのに気付いた。

「呼ばれてるみたいですから、そろそろ行きましょう。準備の良いことに夜食まであるみたいですよ」
「な、永野…」
「何ですか?」
「……いや、なんでもない」
「?そうですか」

気のない声を聞きながら立ち上がり、ズボンの砂を払う。
それでようやく頭が切り替わった気がした。

「…望遠鏡もそろそろ空きそうだし、ようやく思い出作りが果たせそうだな」
「きっと綺麗なんでしょうね。…まあ、みんなはともかく僕は何の知識もない素人ですし、多分そのくらいの感想しか出てこないと思いますが」
「それでいいんだ。今日の出来事が後々の記憶に残るものになりさえすれば、本日の作戦は成功だ」

夜風に煽られて小さく揺れる短髪を抑えるように手を置いてやる。
何かを我慢するように呻く永野だったが、素知らぬ顔で手を離し歩き出すと、すぐに追いついてきて隣に並んだ。

「成功するといいですね」
「…そうだな」

満天に瞬く星を見上げると、切にそう願いながら呟いた。