夏の日にさよなら . 7

「それにしても…最後にとんだ大仕事が待ってたもんですね、まったく…」
「まあそう言わずに。他の誰かに任せられるようなことでもないし、僕たちで片付けるしかないんだから」

普段の起床時間よりも遥かに早起きし校門にたどり着くやいなや、永野はどこかげんなりとした面持ちでぼやいた。
それをなだめすかしながら、石塚は軽く伸びをして来た道を振り返る。
日は昇り始めているものの、まだほんのり薄暗い。
青みがかったグラデーションに溶け込む空と海が、朝の清廉な空気の中で静かに揺蕩うのが遠目に見えた。
生徒玄関に向け歩き出していた永野は、その後ろ姿に気付いて足を止める。
そのまま邪魔をしないようにじっと黙っていた。
ややあって石塚が向き直る。

「さて、それじゃあ始めるかな」
「まずは手筈通りに、ですね?」
「ああ。僕は焼却炉の準備をするから、先に処分するものを僕の方に持ってきてくれるか。その後は引き続き整理の方を頼む」

糊のきいた制服で相変わらずの重装備を整えている永野は、洗練された動作でかかとを揃え、びしっと効果音が付きそうなほど生真面目な敬礼をした。
そういえば、これが一番得意なんだったな。
石塚も表情を引き締めると、負けじと同じ動作を返す。
少しの後、石塚が型を解くのを見て永野も手を降ろした。
回れ右をして玄関に走り去っていく永野の姿を見届けながら、石塚はもう一度振り返る。
今まで何度この光景を目にしただろう。だからといって、特にこれといった感想は浮かばないが。
淡々と目に映る景色を頭の中で処理しながら、これが最後なのだなと実感のない感慨を覚えた。

空は俄に明るさを取り戻しながら、最後の夜が明ける。
終わりの季節に向かって、いつもの夏が始まろうとしていた。




「これで最後です」
「うん、ご苦労様」

小さな焼却炉の回りに一纏めにされた書類やファイルがうずたかく積まれ山を成している。永野は運んできた荷物をその群の上に積んだ。
石塚は山の上に腰掛けながら、時折思い出したようにその辺の束を焼却炉の口に放り込んでいく。

「大分掛かりそうですか?」
「いや、流石に時間には間に合うよ。しかし…当日にこの状況というのは、正直甘く見ていたな。三日前と言わず一週間前から作業を始めるべきだった」

その見解に対しては大いに同意せざるを得なかったが、こうなってしまったものは仕方がない。その日程も互いの合意の上で決めたことだ。
まさか連日連夜まで作業を敢行してさえ、離島の当日にまで書類整理がずれ込むとは…。
作業というのも、基本的には要るものと要らないものを分別し、前者は一部を残しまとめて移送、後者は全て処分ということだった。
その中のほとんどは差しあたりない内容のものではあったが、あまり多くの目に触れさせられない機密も含まれたため、「見た物は口外しない」という何とも軽い口約束で、永野が一人手伝いに駆り出されたのだった。

それにしても、一体どこにどうやって収納されていたのか。
掘り出せば掘り出すほど無尽蔵に沸いて出てくる書類に会議室は半日で溢れかえってしまった。
量もさることながら、一見して分別の区別がつかないものは石塚の判断に任せるしかなく、それが効率にも支障をきたした。
昨日未明、なんとか分別の終わりが見えてきたので、ようやく処分する書類を炉にくべる作業が始まったのだった。
作業中にも数名の隊員が現場を見て呆れ返っていたが、それとなく事情を知っているのか「頑張れ」と無慈悲な一言を寄越すだけですぐに立ち去っていった。
各自島を離れる準備もあるだろうから、当然のことかも知れない。

思えば、家にある荷物の整理は一時間足らずで終わったというのに。
永野自身は始めから必需品以外は持っていなかったし、島へ来てからかさばる私物が増えたということもない。
一度転居した住まいに運んだ荷物は戦闘によって瓦礫の下になってしまったので、それ以降は身一つにも近い状態だ。
しかし元々の家主である石塚の荷物も、見ればそう自分と大差ない大きさに見えた。
「必需品や日用品なんかはあっちへ行けば最低限あるだろうし、なければ買い足せばいい。家に置いてある無線や機械類は、私物として持って行くには重すぎるからね。僕も私的な荷物は衣類くらいなものだ」
石塚の言った通り、持っていくものを整理した後も、部屋はさほど様変わりしなかった。
まとめた私物は事前に届けてあるし、朝は暗いうちから戸締まりだけを確認して家を後にした。
まかり違っても泥棒などとは縁のない島だ。いつも開けっ放しで鍵など閉めたことがない家の戸締まりをして回るのは、中々新鮮な出来事だった。
すきま風にも似た感情が去来する胸の内を感じて、永野は今まで満たされていた自分というのを改めて痛感する。
この土地へ来てからのほとんどを、あの家で過ごしたのだ。
思い出なんて、それこそ沸いて出てきた書類の山くらいはある…と言ったら、少し言いすぎかも知れないが。気持ちにすればそれ以上のものがある。

「暑そうですね」

まだ朝方、加えて気候にも慣れてきたとはいえ、亜熱帯地域の夏だ。
永野が分かり切ったことを言うと、石塚は紙を放り込みながら軍手で額を拭った。

「見ての通りだよ…そっちはいいのか?」
「もうほとんど片づいていますし。僕らの仕事は整理までですから」
「なら、いいんだ」

その微妙な言葉から滲むものを感じ取った永野は、石塚の目に入らないように密かに笑って傍の山に腰を降ろすと、手近な束を石塚に手渡した。
石塚は無言でそれを受け取ると、淡々と物を放り込む作業に従事する。

「戦争は勝ってるんでしょうか。負けてるんでしょうか」
「さあ、どうだろうね…思えばこの島に来てからというもの、そういう先の展望を考える機会がなかった気がするよ」
「先か…石塚さんにはあるんですか?」
「何が?」
「この場合…将来の夢、ですかね」
「夢ねえ…そうだな。今回の休暇で骨休めは済んだことだし、時間は掛かるだろうけど…いつかはパイロットに戻りたいかな」
「大丈夫なんですか…!?」
「うん…この間のことでようやく分かった気がするよ。僕が戦うことで救えるものがある。失わずに済むんだ。…理由としては、当たり前すぎるものだけどね」
「けど、それが一番大事ですよ」

確かにそうかも知れない。石塚は、ここへ逃れてきた理由に向き合うだけの心の強さを、取り戻すことができたのだろう。
呑気な口調ではあるが、その言葉からは揺るぎない決意が伝わってきた。

「永野、お前はどうするんだ?ここへ来てなし崩しに隊へ加わってはいたけど、元は出向扱いだったろう」

話を向けられて、永野は咄嗟に言葉が出てこないことを妙だなと思った。

「僕は……」

おかしいな、自分のことなのに。
何故か、島を出て船から下りて、それから先の明確なビジョンが出てこない。
一つはっきりしているのは、僕はこの島に来て、この人に会わなければ、こんな迷いを抱くことは絶対になかったという事だ。

いつまで経っても先の続かない言葉を急かすでもなく、なかったことにするでもなく、石塚は淡々と燃える火の加減を見ながら作業を続けていた。
隣の永野をちらりとも見ない石塚の手が、その頭をつまむようにひと撫でする。
驚いて思わず顔を向ける永野だったが、石塚はやはり何も言わない。
それにしても軍手のままはないだろうと内心でぼやきながら、永野は束の間、自分の内側に沈み込むように、燃えて灰になる書類をぼんやりと眺めた。




「こっちは完了だ。そっちは?」
「確認しました。あとは…教室だけですね」

学校中の戸締まりを確認しながら、掲示板辺りの丁字路で合流した。
軽く首肯を返しながら、石塚が先だって歩いていく。永野もそれに続いた。
普段はまず閉めることなどない窓という窓を施錠して回ったせいか、空気の流れが滞り蒸し暑さを感じる。
リノリウムの廊下には二人分の足音と、外でけたたましくわめくセミの鳴き声だけがついて回った。
やがて教室にたどり着く。椅子と机も片付けられ、がらんとした素っ気ない空間に二人は足を踏み入れる。
お互い申し合わせたように口を噤んで、戸締まりを確認した。
家、その次に学校。
その二つが、日常のほとんどの時間を過ごす場所だった。
徹夜してまで学校に居残り、仕事をしていたことも珍しくはない。
だから尚更、一人暮らしであれば、家は帰って寝るだけの場所でしかなかっただろう。

…なんて未練がましい。
まるで悔いのないよう、思い出の清算でもしているみたいじゃないか。
どうして僕がこんなにも感傷を覚えなくてはならないんだ?
それこそ、石塚さんに比べれば僕の感慨などほんの一時ここに身を置いただけの、旅行者のそれに過ぎないのに。

「どうしたんだ?変な顔をして。腹でも痛いのか?」
「…なんでもありません」
「そうか?なら、いいけど」
「あと、変な顔でもありません」

余計な一言にむっとした永野が発言を正すと、石塚は笑ってその頭をげんこつで軽く小突いた。

「その顔が変だと言っているんだ」

ますます表情に困る永野の相好が崩れるのを見て、石塚は笑いをこらえながら教室を後にした。




「思ったより平気そうですね。寂しくないんですか?」
「そうかな…そう見えるだけかも知れない」

最後の務めを果たした後、二人は肩を並べてゆっくりと歩を進めていた。
照りつける太陽に細い目を益々細めながら、石塚が独り言のように返事を返す。

「そういう風にも見えませんね」
「…これでも一応、故郷だからな。名残惜しさくらいはあるさ。まあ一通り見るところも見て回ったから、それで気は済んだかな」
「…そうですか」

坂に差し掛かった。海岸へ下るための、長い坂だ。ここを降りれば埠頭が見える。
分校の廃校が決まり、それと同時に全島避難と決まったのもそう昔の話ではない。
恐らく大きな混乱を来すようなことはないと思うが。遠くから大勢の人の声が聞こえた。みんなは一足先に船の中にいる頃だろう。

「何はともあれ、これで隠遁生活も終わりだ」
「思えば長い休暇でしたよ。これからが本番です」
「ああ、でも強いて言えば…」
「何です?」
「永野の料理が食べられなくなると思うと、少し味気ないかな」

そんなことは僕も同じだと、永野は口を固く引き結んだ。
食べさせないといけない人がいるから、手に覚えのない料理のスキルなんかを身に付けてしまったんだ。
忙しさの合間を縫って、毎日苦心しながら食材を買って献立を考えて…。
そもそも、作ることが楽しくてやってるんじゃない。食べて貰うことが嬉しくてやっていたんじゃないか。
食べてくれる人がいないと、こっちだって、張り合いがなくなってしまう。
永野の足が止まったのを見て、石塚も立ち止まる。
少しの空白を押し流すように、蝉の鳴き声が一際高くなった。

「…石塚さん。あなたが僕を必要としてくれるように、僕もあなたを必要としています」
「どうした、藪から棒に」

永野は自己を奮い立たせるように一度目を閉じた。
…決めた。たった今、決めた。
思い立ったら後は行動あるのみだ。今なら、そうやって逃げ道を塞いで、それと決めた方向へ足を踏み出すことが出来る。

「もし原隊に復帰することがあれば、僕に言ってください」
「…永野」
「今まで散々隊を解体されながらもくつわを並べていたのは、本当に偶然でしかなかった。でもこれからは、僕は僕の意志であなたに付いていきます。あなたの許で、最後まで生き残ってみせます」
「…この島では、有事だったから例外的な措置が取られたんだ。難しいんじゃないか。上級万翼長殿が一介の千翼長の部下というのは」
「あなたが今より偉くなれば、それで済むことだ」
「簡単に言ってくれるなあ……僕は左遷されて、今日の今日まで閑職に甘んじていた身だぞ?」
「僕が全面的に保証します。あなたは優秀だ。だからまだ、幾らでも戦うことができるはずだ」
「…やれやれ、厄介なお墨付きか。いつの間にか強かになったものだ」

石塚は歩きながら夏雲の浮かぶ空に向けて呆れ顔を向けると、ズボンのポケットに入れていた手を抜いて拳を作り、甲で永野の胸を軽く叩いた。
小突かれて思わず手を差し伸べると、開いた拳から鈍く光るものが落とされる。

「…約束するよ。そうだな…その誠意と熱意に免じて、だな」
「石塚さん、これは―」

間違えようもない。これは家の鍵だ。
渡された意図が分からず、交互に鍵と石塚へ顔を向ける永野に、石塚は努めて普段の表情を装いながら手をポケットに戻した。

「君が預かってくれないか?」
「し、しかし…鍵はこれ一つしかないじゃないですか」
「だからだ。…もし僕がいつかここに帰りたいと思ったら、その時は君と来るしかないわけだ」
「もし、僕が帰りたくなったら…」
「君なら最初から僕を誘うだろう?」

ああ、まったくその通りだ。
一人だけでは意味がない。僕とこの島を結びつけているのは、彼をおいて他にないのだから。

「あそこが僕の家でもあり、君の家でもある。君も立派にこの島の住人だよ」

鼻の奥につんと刺すものがあったのを、どうにか堪える。
意識して呼吸を深くすると、むせそうになるくらい強い潮の香りが一瞬、突き抜けていった。

「まだ船旅が残っている。…余暇はあるんだ、精々ゆっくりしようじゃないか」

石塚が前を向いて歩みを再開したのを見計らって、ほんの少し溢れてしまった水滴を袖口で乱暴に拭った。
また一つ深呼吸。一人小さく頷いて、自分自身に合図を送った。

「石塚さん、どっちが先に船に着くか勝負です!」

唐突な宣戦に「え?」と疑問を向ける石塚に構うことなく、永野は一気に追い上げて石塚を抜かすと、坂道を転がるような勢いで下っていく。
流石に状況判断の速い石塚が何事かを察したのか、気付いたときには永野のすぐ背後に足音が迫ってきていた。
次からは、先へ先へと行ってしまう彼に追いついていくばかりではない。
自分の進む方向は、目途は自分で決める。その道を彼と同じくするなら、彼の前に立って道を拓く。
それだけの覚悟をもって、最後に僕らは肩を並べてこの場所に帰ってくるだろう。
木立に囲まれた最後のカーブを抜けると、一気に視界が開け、ざわつく喧噪が飛び込んでくる。
既に大半の民間人が船に乗り込んだ後のようだ。気配と賑わいの割に辺りは閑散としていた。走り抜けやすくて何よりだ。

「おおーい!」

その声の方向へ顔を向けると、デッキから身を乗り出すようにして幾人もの見慣れた仲間が手を振っている。
全力疾走で向かってくる二人に何やら勘付いたのか、「二人とも頑張れー!!」「遅いぞー!」といった応援とも野次ともつかない歓声が降ってくる。
遠くからでも分かる騒がしさに眉根を寄せた永野だったが、肩に触れた手にはっとなっていつの間にか併走している石塚と目を合わせた。
その顔は普段からすれば無防備なほどに、笑っている。
思わず速度を緩めた永野にそれ以上構うことなく、糸目に戻った石塚は永野の目の前に立って彼我の距離を離していった。
直ぐさま我に返り、短く息を吐き出す。密かに決意を固めて早々この様では、格好が付かない。
送られる声を遠くに感じながら、目の前を走る背中に向かって力強く拳を握り、ひたすらに地面を蹴った。

真夏の日射しの下、一際大きく上がった歓声に数羽のカモメが空へ高く飛びあがって行った。