夏の日にさよなら . 4

漠然とした予感は確かにあった。
もしかしたら、いつかこういう日が来るのではないか、と。
過去に幾度も戦場に一人取り残された彼が、そのうち「自分だけはどうやっても死なない」のだと無意識にでも思いこんで無茶をするのではないかという危うさを、まさにその時が来る瞬間まで自覚することが出来なかった。





病室の扉を閉めた途端、視界が歪むように傾く。
慌てて扉の取っ手を掴み身体を支え、大きく息を吸った。

「……っ…、くそ…」

どうやら自分が思っている以上に堪えているらしい。
この程度の徹夜で身体が変調をきたすほどやわではないし、恐らく精神的な要因が大きいのだろう。
目の前が灰色に霞んでいくのを、歯を強く食いしばることで耐えた。

一心にひたすら身体を鍛え、いついかなる時も正しい規律を己の指針として行動を選んできた。
しかしどれだけの外殻を取り繕っても、所詮は外殻。その中身は何も変わらない。
その程度で自分の身体が誤魔化されてはくれないのを知りながら、それでも大本の在り方として根付いてしまったねじれを、自分は変えることが出来なかった。

身体はひたすらに鍛えれば、必ずその成果が目に見える。
規律は自分が正しい道から外れないため、絶対に必要なものだ。
しかし精神というやつは、はっきりと目に見えてはくれないものだ。
自分の判断に絶対的な信用を置けるほどの強さを、僕は未だ得られずにいる。
彼は常用している胃薬の減りがここ最近やけに早くなっていたことに、果たして気が付いていただろうか。
どれだけ自分が思い煩って苦労をしても、これだけは…この打たれ弱い精神と臆病癖は、きっと容易くは治らないのだろう。
ずっとそう思っていた。
あの時、咄嗟に手が動いて彼の盾になろうとする自分を自覚する前までは。

荒い息が落ち着きを取り戻し、視界も平行と色彩を取り戻す。
部屋から出て行ったのに遠ざかる足音が聞こえなければ、きっと不審に思われるだろう。
大きく呼吸を繰り返し、平静を取り戻した永野は出口へと向かった。
途中、診療所の職員である女性と鉢合わせ、軽く会釈をする。

「彼のことはもう良いの?」
「はい。報告が遅れましたが、先ほど意識が戻ったので…ご迷惑をお掛けしました」
「気にしないで。あなたもお大事にね」

中年の女性は柔和に目元を和ませると、永野の来た方へと向かって歩いていった。
昨晩、昏々と眠り続ける石塚さんを見ていると、どうしても不安で傍を離れることが躊躇われ、閉院時間になっても頑として動かない自分に世話を焼いてくれたのもあの人だった。
幾らか取り留めもない言葉を交わすうち、若干の躊躇をしながら女性は言った。
―本当にこの島を離れなければならないの?と。
ここへ石塚さんが運び込まれた時に部隊と所属を名乗ったのだから、自分が学兵であると知っていて、その問いを投げかけたのだろう。
その言葉に、心の底から熱く疼くものを感じた。

結局どう答えたのかは覚えていない。もしかしたら答えなかったのかも知れなかった。
確かに、自分にもここを離れたくないと強く思う心があると、今ならはっきりと自覚することができる。
しかし、この島にいる自分以外のほとんどの人間はここで生まれ、ここで育ち、ここで死ぬことが自分の一生なのだと信じて疑わなかった人達なのだ。
そんな人を前にして、この問いに自分が答えることができるだろうか?
何か言うにしても、結局はここを出て行くしかないという意味合いの言葉をぼかしてそれとなく伝えるのがきっと精一杯だろう。
あの人はきっと、そんなものが欲しかったのではないはずだ。
じわじわとくる胃の痛みを噛み殺しながら診療所を出た永野は、目に染みるほどに煌々と輝く夕陽が水平線に沈んでいく様を見て、束の間でも心を空にしようと日が落ちるのを見送った。





赤から紫掛かってきた空の下、永野は当てもなく海岸線を歩いていた。
あのあばら屋は傍目からしても物取りなどとは無縁な物件であるし、どうせ帰っても自分一人なら、こうして気を紛らわせていた方が落ち着くだろうと思ってのことだったが、今のところ望んだほどの成果は出ていない。

…彼はどうだか知らないが、胃薬の減りが早くなっているのを未だ指摘されないのが自分の所為だけではないことを、自分は知っている。
隊長とは、文字通り全隊員の命を総括する重責を負う役目に付けられた肩書きだ。
そんな大層な仕事をする役目でありながら、その多くの命を敵前に送り、死を目の前に戦うことを命令するという二律背反。
加えて、かつて彼は敵はもとより味方にさえ死神と呼ばれるほどの才能と不運の持ち主だった。
彼はずっと苦しんでいたはずだ。
軍での出世も名誉もかなぐり捨てて逃れてきた故郷という安住の地でさえ、彼をそこに縛って置いてはくれなかった。
何よりもその過程で、彼は努めて自分を押し殺すことに長け、それも仕事だからと誰にもその胸中を露呈することを許さず公私ともに冷静沈着な切れ者と評され、仲間から恐れられるのと同等以上の信頼を勝ち得て、決してそれを手放すことはなかった。
そんな彼の傍に誰よりも長くいた自分だから、はっきりと言える。
…結局、僕も石塚さんも、重い外殻を作ることに慣れすぎていただけだ。
その殻を取り払うことができるのもお互いだけという妙な信頼関係を築くに至った事由も、似た者同士であることに起因しているのかも知れない。

気を晴らすように見上げた空は濃紺を帯び、未だ夕暮れと夜の狭間で混濁する中に、ちらほらと瞬く星が見えた。
まだ夕方、加えて肉眼でもこれだけの数が見えるのに、機材を使ったら一体どれほどの星の海が見えるのか。
凪いだ海面に、緩く波が取って返す。
出すものを出し切って後には何も残らなかったかのような茫漠とした思考の中では、周囲の音さえ耳に入らなかったのだろう。

「…おい、永野!」

肩を掴むなり耳元で大声を出されるまで、気が付かなかったのだから。

「…ああ、こんなところでどうしたんです?」

大した反応もなく言葉を返す永野を前に、大塚は怪訝そうに眉間を寄せたが、ややあって口を開いた。

「…バイトの帰りだ。偶然お前を見かけたもんだから、さっきから何度も呼んでたんだが…気付いていなかったらしいな」
「ああ…すみません。少し考え事をしていたもので」
「いや」

しばらく無言のまま長い道を並んで歩いた。
そろそろ長い海岸線が途切れて、村の中心部に出る頃だろう。
その間、ちらちらと永野の様子を窺っていた大塚が独り言のように呟いた。

「授業、休んだんだな」
「…ええ、まあ」
「命に別状はないって男先生がホームルームで話してたんだが、様子はどうなんだ?」
「意識は戻りましたし、あと数日様子を見て退院できるみたいですよ」
「そうか…観測には間に合いそうだな」
「大丈夫ですよ、きっと」
「そうか」
「はい」
「……」
「……」
「……ああ、その…石塚を助けてくれて、ありがとうな」
「…当然のことをしたまでですよ。どうしたんです?急に」
「いや、俺が勝手に言いたかっただけだ。…その、聞いてるか。石塚から、あいつの妹のこと」

妹。
それとなく聞いたことはあるが、自分が知っているのは彼に妹がかつて存在していた、という程度の情報だけだ。
あまり触れてはいけないような気がして、彼が自発的に話す以上のことは何も聞かなかった。
「詳しくは」と永野が首を軽く振ると、「そうか」と大塚が視線を落とす。

「…昔、俺はあいつの妹を助けられなかった。昨日の、あの時もそうだ。俺は石塚に一番近い位置にいたのに…俺が気付いたのは、お前が石塚をかばう為に動いたんだと分かってからだ。俺にはどうやってもあいつを助けられなかっただろう」
「……」
「だから、お前のおかげだ」

不器用故に、一つ一つの言葉を慎重に選ぶ。
大塚にしては珍しく長い台詞を、永野は黙って聞いていた。

「俺はまた、大事な人を失うところだった」

詰まるところは、そういうことだ。
目の前にいるのに助けられない。それがどれだけ悔やんでも悔やみきれないものか。自分のせいだと責め立てる心の呵責の歯がゆさを、大塚は嫌と言うほど知っている。
その傷は時間の経過と共に薄れることはあっても、決して消えたりはしないだろう。
大塚は汗を拭う素振りで額の傷に触れながら、今更のように込み上げる余分な言葉を努めて押し戻した。

「失礼を承知で言いますが…石塚さんがあなたを邪険にしていても、それでも、大事だと言えるんですね」
「あれで、身内みたいなもんだからな。今はこんな関係だが、やはりあいつには死んで欲しくない。…本当は、あいつがいつまでもあんな態度だから、迷っていたこともあったけどな。それでも大切なんだって、気付いた。永野のおかげでな」
「そんな…むしろ僕は余計な迷惑をかけてばかりですよ」

謙遜でなく、永野は本気でそう思っていた。
少なくとも、自分がらみの件で大塚が石塚さんにあらぬ恨みを買ってしまったことは火を見るよりも明らかだ。
彼がああまで過剰に反応するのは流石に予想外だったが…。
何事かを思い出して、ただでさえ萎えていた顔色を青くする永野に、大塚は呵々と晴れやかに笑って見せた。

「…あのことはもう気にするな。それよりも、お前にはちゃんと感謝をしておきたかったんだ」
「…その、さっきの石塚さんが大事なんだってこと…ちゃんと本人に伝えたらどうです?きっと何かのきっかけに…」

笑顔の名残を残したまま無言で首を振る大塚を見て、永野は躊躇った挙げ句口を噤む。

「あいつも、本当は分かってるはずなんだ。ただ、今更手の平を返したりできないだけでな。まだ気持ちの整理がついてないんだろう。そう簡単に片付けられる問題じゃないんだ、これは」
「でも…本当にこのままでいいんですか?島を出たらもう会えないかも知れないのに…」

ああ、だから。
今ようやく、彼が言葉を尽くして言わんとしていることを理解する。
だから、彼が選んだのは僕だったのだと。

「…本土へ行ったら、俺の分もあいつの面倒を見てやってくれるか」

咄嗟に開いた口からは何も出てこなかった。
何か言わなければと急くほどに何も出てこなくて、ただひたすら頷く。俯いた拍子に水滴が滴り落ちて地面に黒く染みを作る。
顔を上げられずに立ちすくんだままでいると、彼の片手が励ますように力強く肩を叩いた。

「頼んだぞ」

大半が地面を見ている視界から、彼の靴が消える。
それに気付いて目で追った頃には、人気のない道路の先に彼の背中が遠くなりかけていた。

「…大塚さん!!」

自分でも驚くほどの大声に、街路樹の下で彼が立ち止まる。

「観測、絶対に成功させましょう!」

木陰のせいで表情は覗えないが、振り向いて軽く手を振った大塚の姿は、夕闇に溶けるように少しずつ小さくなっていった。
彼は石塚さんの心配をしに来たんじゃない。ただ「よかったな」と一言、祝福しに来たのだ。
その姿を見届けることなく、大塚が向かったのとは逆の方へと歩みを再開する。

明日はちゃんと授業にも出て、それから彼の顔を見に行ってやろう。
多分、本当は寂しい癖にそれを表に出さないようにして、それが絶妙に情けない顔を作らせるに違いない。そうであればいい。
小さく笑いを漏らすと、自然と家路を辿る足取りが軽くなったような気がした。