夏の日にさよなら . 3

それは喊声のような、咆哮のような、長く尾を引く木霊だった。
深い微睡みから急に引き上げられるように衝動的に目を開き、四方を視認する。

「石塚さん」

その視覚情報の処理が追いついたのは、此方を覗き込むように様子を窺う永野の顔が見えて、声が聞こえて、たっぷり一呼吸の間を置いてからだった。

「気が付きましたか?」

ただ一言を臓腑から絞り出すために、恐る恐る肺の限界まで空気を吸い、ゆっくりと吐き出す。

「……、ああ」

擦り切れたような音が喉を鳴らした。
それだけの労力が必要なほどに、僕は疲れているようだ。
改めて周囲を見渡しながら、肺を満たす湿った空気に気付く。
周囲は密度の濃い森だ。薄くもやが立ちこめている。
どこの樹海に迷い込んだのかと言わんばかりに太い幹の樹が一定の間隔を保ち、視界の果てまで続いているような。そんな錯覚を覚えた。
頭上に目をやると、そこには空というものがなく、ただ枝葉の密集した隙間から僅かに薄明かりが漏れて、湿った苔に覆われた地表の所々に明るい染みを作っていた。
身体を捻るのも億劫で、背中のものの感触を手で検める。樹の固い表皮がウォードレス越しにも判別できた。
二人が並んで背にしていることを考えても、相当大きな樹なのだろう。
意識して深く呼吸を繰り返す。
差し迫って危険な状況というわけではなさそうだが、そう易々と安心はできない。

そしてようやく、これが何なのか気付く。
おそらく、士官学校時代に山中訓練へ行った時の記憶だ。
どんな経緯があったかは思い出せないが、僕と永野だけが班からはぐれ、半ば遭難の憂き目に遭ったのを覚えている。
早々に救出されて事なきを得たからよかったものの、後にも先にも、ここまで大きなミスをしたのはこの時だけだ。
ふと気になって、隣に腰掛けている永野の様子を見る。
なにやら背嚢を漁っていたかと思うと、それが目当てのものか、レーションを取り出し僕の鼻先へ突きつけてきた。

「火を使うものは匂いで動物をおびき寄せかねませんから、こんなものしかありませんけど。無理にでも腹に入れておいて下さい」

手渡された固形物が何かを確認することもなく口に放り込み、いつの間にか握らされていた水を一息に煽る。
そしてようやく、かなりの空腹状態にあったことに気が付いた。
寝起きも決して悪くないはずなのに、ふと目を閉じたらそのまま寝てしまいそうな極度の気だるさが抜けない。
これは多分、戦闘に集中しすぎた時のいつもの症状だ。
熊本戦以来体験していない、数日起きられないような疲労と同種の。
…おかしいな。この頃はまだ前線に出たことも、敵を肉眼で捕らえたこともなかったはずだ。
記憶が交錯しているのか。その境界もあやふやだった。

「さっき、雨が止んだところです」

そうか。だから妙に空気が湿っぽいんだな。

「下手に動くのも得策ではないでしょう。…少し休んでください。そのうち助けが来ますよ」

別に来なくても一向に構わないのだが、口を利くのも億劫なほどに疲れているし、何となく不謹慎だと言われそうな予感がしたので黙っていた。
本気で怒る永野を、僕が単純に恐れているだけとも言える。決して口にはしないけれど。
どうせ思い出の中の夢なのに、何を恐がるんだか。
そう自分に言い聞かせてみたが、あまり効果はなかった。
頭では分かっているのに、中々踏ん切りがつかないのは性格だなと自己分析しながら、重たくて堪らなくなってきた頭を隣の永野の肩に預ける。
驚いたように肩が跳ねたが、それだけだった。
そう言えば、この頃永野とは今ほど奇特な間柄になるような兆候はなかったな。
それにしても頭が重い。一体何が詰まっているんだろう。
もし寝てしまったら、頭の重みだけでどこまでも沈んでいけるような、そんな気がした。


風もないのに木々が凪いでいる。
枝葉に覆われている空から水滴が滴り落ち、唯一露出した顔を濡らす。
森の中に雨が降る。泣いているように思えた。
柄にもなく思考が感傷的なのも、気持ちが昔へ昔へと立ち帰っている証拠かもしれない。

助けが来ないのは恐くない。
敵か味方か。どちらのものとも知れない弾丸雨飛の中、血反吐を吐きながら、泣きながら、苦しみ抜いた末にくたばるよりは遙かにマシだろう。
別に自殺願望もなければ、自分を英雄だなんて思いこめるほどの青臭さは、生きてきた道すがら捨ててきたはずだけど。と、自分で自分に言い訳をする。
死ぬことに積極的だという点ではどちらも同じ事だと、僕は意味もなく返事をした。
少なくとも、ここではまだ死ねない。
ここは潮の匂いが遠すぎる。
もしも死んだら、最期にはきっとそこに還る。小さい頃から海を眺めて、何とはなしにそう思っていた。

じゃあ僕は、死ぬために故郷へ戻ったのか?

いや、違う。今はまだだ。少なくとも永野のいるところではない。
そう思わせてくれるために、今、永野が隣にいてくれる。

「…まだ早いですよ、石塚さん」

きっとそうだ。今はまだ早い。
少なくとも、永野がいる限り、僕の終わりは回避できるだろう。
何処へ行っても潮の匂いから逃れることの叶わないその場所は、本当の意味で全てが終わった後に、僕が帰るための場所だ。





「…石塚さん!?」

深い微睡みから急に引き上げられるように衝動的に目を開き、四方を視認する。

「石塚さん!!」

その視覚情報の処理が追いついたのは、此方を覗き込むように様子を窺う永野の顔が見えて、声が聞こえて、たっぷり一呼吸の間を置いてからだった。

「…遅すぎですよ、石塚さん」

ただ一言を臓腑から絞り出すために、恐る恐る肺の限界まで空気を吸い、ゆっくりと吐き出す。

「……、ああ」

僕はまだ、息をしている。
生きているから。

「ごめん、永野」
「…なんで謝るんですか」
「心配を掛けたから」
「……」
「僕は、どうなってる?」

見上げる天井は白く、視界の端にある衝立も白かった。
身を乗り出して僕を見ている永野の顔も、少し血の気が引いている気がした。

「…貴方らしくもないミスでした」
「うん。警戒が足りていなかった」
「……もし、今死んだりしたら…そんなことが、許されると思ってるんですか」
「思わない。…全て僕のせいだ。永野の気の済むようにしてくれていい」
「なんで、そんなこと僕に委ねるんですか…」

手を伸ばそうとしたが、多分、指先が少し痙攣しただけだっただろう。
重たくて手が持ち上がらない。それだけじゃない。身体が鉛のように鈍く、重くて不自由だった。
これでも、僕は僕なりに責任を感じていた。
永野に負担を掛けてしまったこと。今、永野に触れてやれなかったこと。その何れかに対して。

「……敵の攻撃で倒壊した家屋の破片が掠めて、後頭部に軽い裂傷。それで脳震盪を起こして、すぐにここへ運ばれました」
「どれくらい時間が経った?何か損害は?」
「ほぼ丸一日経ちました。あなたの負傷以外に被害はありません」

問いかけるままに、淡々とした報告が返ってくる。
僕は意識して、小さく息を吸った。

「…もしかして、ずっとここにいたのか」
「はい」

永野はもう身を乗り出して僕の顔を見てはいなかった。隣の椅子に座っているのだろう。いつものように真っ直ぐに背を正して。
辛うじて首を捻り、頭を横向きにすることに成功した。

「…報告に虚偽がある」
「……」
「負傷二、だな」
「…は」

額のガーゼに目を留めて言うと、永野はそれに軽く手をやりながら僕から視線を逸らした。
どちらも、見られたくないという意識が働いたための行動だと察せられる。
少し目が充血しているようだ。見るからに疲労の色が濃いのは、暑さのせいか、睡眠不足か。
僕が起きないのを良いことに、すぐ隣で寝る間も惜しんで言いたい放題言っていたのかも知れない。
これでは肉体的にも精神的にも、僕よりか永野の方がよほど立派な病人だ。
それを想像して凝り固まった顔を緩めようとしたが、功を奏したか否かは永野にも分からないだろう。

「どうしたんだ、それ」
「大したことはありません」
「言いにくいような傷か?」

精一杯何でもない風に装ったつもりだったのだろうが、まだまだだなと思う。
横断歩道を渡ろうとする時の子供のように、目だけが泳いでいた。
視線に耐えかねたのか、言いづらそうに永野は口を開く。

「…その、石塚さんの向かった方向へミサイルが飛んでいくのが見えて、咄嗟に機体を盾にして、瓦礫が直撃するところを凌いだんです」

そうだったのか。
あんな臨死体験まがいの夢まで見て、まだ現実で目が覚めたのはきっと永野のお陰だ。

「それでも完全には防ぎきれなくて…それで、石塚さんが倒れたまま動かなくなって…その、気が、動転して、…それで」
「それで?」
「…パニックになってコックピットを出ようとした時、機体が傾いで……思い切り、その、ぶ、ぶつけたんです」
「…そうか」
「……何ですか、その顔は」
「いや…中々に心配させ甲斐があるものだなと…思っ、……くっ」
「ふ、ふざけないで下さい!!僕がどれだけ心配したと思って…」

途端にムキになって食って掛かる永野を見ていると堪らなくなって、益々笑いが止まらなくなる。
永野もそれに気付いたらしく、大きく咳払いをすると、憤懣やるかたない様子で矛を収めた。

「…どうせ貴方には分からないんですよ。いいんです。…いつもそうだ。貴方は僕が苦しんでいるのを笑いはしても、謝りはしないんです」
「それは、最初から僕が永野に謝るようなことはしないからだ」
「嘘です。…被害者が断言します」
「それでも、さっきはちゃんと謝っただろう?」
「でも、今は涙が出るほど笑ってますよ」

永野の袖口が幾らかの労りを含んで目元を掠めた。
病気になった途端に周囲の人が優しくなるのはどうしてだろう。

「…謝るくらいなら、ありがとうの方がいくらか前向きだと思わないか?」
「それ、はぐらかしてませんか?」
「そんなことはない。…永野には、僕がこんなことになって迷惑を掛けたかな」
「…迷惑というほどではありませんけど。貴方が無事だったことの方が、今は重要です」
「そうか。ならやはり、ここはごめんじゃなくてありがとうだな」

永野は黙って、少し笑った。
もう何を言っても無駄だ、という顔をしている。
そして今更のように自分の身体の感覚を取り戻しながら、不意に、左手に掛かっている圧力を感じた。

「…それ、僕の言う台詞ですよ」

自分の手綱は、自分じゃない誰かが握ってくれているから、いざというときに救われる。

「出撃前に言いかけて、結局言わずじまいでしょう?」
「そう言えば…そうだな」
「今までずっと、ありがとうございました」
「…うん」
「これからもよろしくお願いします、石塚さん」

ずっと、握っていてくれたのか。
いや、きっと僕のものを握っていられるのは彼以外にいない。
彼以外に握らせない、というのが正確かも知れないが。
僕もつられて、面白くもないのに笑って見せた。
永野がいるお陰で、僕は死ねない。

「この際だから、正直に言いますけど……人型戦車には、もう乗りたくなかった。貴方の説明はもっともでした。それでも、どうして僕がと思いました」
「それは、謝るべきかな」
「いいんです、もう……そのお陰で貴方を助けられたから、どうでもいいんです…」
「…結果論だな」
「結果が、全てですよ」

僕は僕の臆病で、君に嫌な役目を押しつけてしまった。
永野はそれを笑って許した。笑いながら、安堵に弛んだ涙腺にも気付かない様子で嗚咽を漏らし、ベッドに顔を埋めた。





「大事ないそうですが、怪我が怪我ですから。しばらく安静だそうです」

また明日来ると付け加えて、永野は今はオレンジ色に染まる白い部屋を出て行った。
さて、どうする。
身体は大分マシにはなったが、起きあがって何かする気にはならなかった。
それじゃあもう、眠るしかない。
如何にも非生産的で度を超せば不健康なそれが、今の僕には必要なものだろう。

それにしても、島の中にこんな整った病院があっただろうか。
今は夕暮れ時のようだが、何時なのだろう。
どうやら永野は付きっきりでここに居たらしいが、授業はどうしたのだろう。
もしかしたら、そんなことさえ考えられなかったのかも知れない。
もし僕が逆の立場だったら、きっと他の何もかもを忘れて、ずっと永野の傍を離れないだろう。
そう言えば、永野は明日からしばらく一人きりなのか。
永野を心配しているというよりは、軽くなった僕の左手が寂しいという、それだけのことだ。
こんな僅かな喪失感だけで、僕の得た幸福が如何に比重を占めていたか、その有り難みを顧みることができる。

つんと鼻を刺す消毒液のような匂いに顔を顰めた。
ここもあの森みたいに、すぐそこにあるはずの潮の匂いが遠かった。
誰かに頼んで窓を開けて貰おうか。
どうして永野がいるときにそれに気づけなかったのだろう。
ああ、そういえば、永野からは潮の匂いがしていたな。そのせいか。



たった三ヶ月。この島に戻ってから得たものが、こんなにも名残惜しい。
死ぬことすら、この島を離れることに比べればどうということはない。そんな考えすら浮かんだ。勿論死にたくはないが。
今この時ですら、僕の妄執が見せた幸せな夢だとしたら。
もうその夢の終わりが見えているから、今更のように郷愁に駆られるのか。
思い返せば、何もかもが消えた後に本当に夢だったと言われても、僕は疑わないかも知れない。

勝ち取ってきた勲章も武功も出世も捨てて、故郷に島流しになって。
空いている住居がないからと、宛がわれたのがあのあばら屋だった時は、感想を漏らすより先に笑いが込み上げて止まらなくなった。
一介の千翼長の住まいが一軒家なんて、考えられないくらいに贅沢じゃないかと我に返った自分に言い聞かせたっけ。
僕も、随分と守りにはいったものだ。
授業にもまともに出席せず、世捨て人みたくのらりくらり過ごすうちに、突然永野が僕に会いに来て。
そうだ。そこからは、夢なんて希薄なものじゃなかった。
一日、一時間、一分、一秒を。永野がいるからって必死すぎるくらいに頑張ってきたじゃないか。
戦争をしている時と同じくらい、生きていることを実感していたはずだろう。
やっと逸らしていた目が現実を捉え始めると同時に、意識は少しずつ眠りに埋没していく。
またさっきと同じ夢を見ても、もう僕の隣には誰もいない。



肩に食い込む荷物を背負い直して、立ち上がる。
ここに座っていれば助けが来るなんて保証はどこにもなかった。それでいい。根拠のない希望は必要ない。
だから、少し先で待っている永野を追いかけて、当てもなく、あるとも知れない目的地までの道なき道を一歩一歩進む。
いつか全てが終わって、どこかで潮の匂いがしたら、きっとそこが、僕と君の帰る場所だ。