夏の日にさよなら . 1

ふと思い出すのは、いつもの彼のしかめ面。
戦争の直中。沸々と込み上げる恐れに目を逸らしそうになるたび、いつもお決まりだった彼の怒鳴るような、半ば懇願のような叱咤を思い出すだけで、凝り固まった表情筋が微笑を象るための動作を思い出す。
生来の仏頂面が、こんな時にだけ浮かべる表情の変化を自覚するたび、あり得ない、下らない願望が確かに心底に根付いているということにまで目が向いてしまう。
彼が、この戦域のどこかにいてくれれば。
自分の背丈の数倍の視点から、黒い影を視認する。まだ気付いていない。
銃把を握る巨大な手が、まるで自分のもののような感覚。
浅い呼吸に、鼓動の速度の上昇を感じる。空気の震えはフィルターを通り、ノイズは全て遮断される。
銃口は既に狙いを定めて動かない。その時が来たら引き金を引く。
あとは反射的に体が動いてくれる。何も考えなくて良い。
思考に出来た空白の、更に奥の方に引っ込んだままでいたものが、不意に明確な意志となって脳裏に浮かぶ。
物理的な接触。
無性に、会いたいと感じる。
たったそれだけの行為に、何か重要な意味を持たせようとしている。
それは当時の自分にとって、無いものねだりの他の何物でもなかった。




僕が彼に抱く印象は、初対面から今日に至る日までのブランクを含めた数年間、全くの不変だった。
彼は、くそが付くほどの真面目で、我が強く、頑ななのだ。
僕の元にありながら、頑なに、一種の意地のように、今日までしぶとく生きていてくれたのは、彼だけだった。
詰まるところ、不変で頑なな彼を、移ろいやすい心情にあった自分は拠り所として縋っていたかったのだろう。

それが今、何の因果か、こうして、この僕の傍にあるという事実。
偶然でも必然でも、呼び習わすことのできる言葉なら、何でも構わない。
ただ確かな事があるとすれば、彼が傍にある毎日というのは、自分が思っていた以上に幸福で、不確定で不安な要素を孕んでいながら、それでも安定していて、満ち足りていたということ。
故郷があって、仲間がいて、彼がいて、一つも欠けたものがなくて。
たとえその枠のすぐ外で派手などんぱちが繰り広げられていたとしても、そんなことさえ忘れさせてくれるような、差し迫った危険を感じない日々。

思えば、今まで生きた中で得たものは、そのうち喪われてしまったものばかりだ。
すくい上げた拍子に隙間から漏れ出て、結果、手の内に残るものは僅か。
つかの間だけ手に入れたという、虚しさだけが常に去来する。しかしそれを止めることが出来ない。
それを甘んじて享受することが出来なくて、それでいて、望んでもないのにいつの間にか手に染みついたこの力は、敵を殺すことで人を助ける、諸刃。
死神はどれだけその力を行使し、刈り取っても、何も得ることはない。
これは何かの皮肉だと思った。

枠の、島の中では、エースとか死に神呼ばわりされる凶猛な力は必要なかった。
決して望んで左遷されたわけではなかったが、まさかそれがこんな特異な事態になるとは思いもしない。
時々思い出したようにぬるい戦域に出向き、気が向いた時に学校に行き、海を眺め、空を仰ぎ、何もしないでいい。何も起こらない幸せを存分にかみしめていられた。
そして、外敵から囲われたつかの間の幸せに甘んじていることと、それに気付かないふりをしていた自分を自覚した。
目に見えるものだけが失われなければ。自分を取り巻くものさえ欠けなければ。
これはエゴだ。
しかし僅かな正義感とも偽善とも言える何かが、その意志を否定する。


「…それじゃ駄目なんですか?」

それは、身勝手で、功利的な、自分の欲求を満たす以外の何も顧みない理想だ。
「それの何が悪いんです?」

何が、何がだろう?
自問でしか求めたことのなかった答えの、自問以外で得た初めての答えは、あまりにも簡潔で、一瞬にして鈍く滞った思考の一切合切を押し流した。
「…うーん…仮に、ですよ?誰かがどこかのヒーローみたいに、敵から味方を守るんだってご大層な看板を掲げたとしましょう。そしてヒーローは、その目的を顔も知らない不特定多数の人々の為に果たした。敵に多大な犠牲を出し、その結果味方を救った」

僕は黙って頷く。
彼の頭で、その一語一語が絞られ、篩にかけられ、声になる。
「そこに得られるものは結局のところ、自分の力で人を救ったという満足感だ。もしくはそれで感謝されたい、認められたいという欲求とかが妥当でしょうね。それが誰かに頼まれたものでもないなら、尚のこと慈善活動と言う名の自己満足に他ならないでしょう?」

そうなのかも知れない。
…だから?
「だから、良いんですよ。本音と建て前が違っても、動機が何であっても。貴方は自身を、その環境を守ることで、結果として周囲を救っている」

もしもまた、今までのように目を背け、見知らぬ味方を見殺しにしてきたように、それらを守るために環の外に犠牲を強いることになっても?
それでも僕は正しいのか?
「その時は、その時でしょう」

呆気なく語られたこの台詞が、あの梃子でも動かない杓子定規の物言いとは、俄には信じがたい。
あまりにも不謹慎で、思わず失笑を漏らした。
そうか。しかしそれが、戦いの、正義の、僕の、在り方なのかもしれない。
息を吐く。意識がようやく立ち帰る心地がした。
「………ありがとう」

これ以上、この場に相応しい言葉があっただろうか。
暫くぶりに自分の口から出た声を聞いたような気さえする。
「なんだか…らしくないですね、お互いに」
「そうだな」

軽く口の端を持ち上げる永野を見て、意味もなく微笑み、訳もなく嬉しくなる。
「君は良い軍人になれる。僕が保証しよう」
「…勘弁してくださいよ」

杓子定規は、杓子定規なりの答えを見つけているんだろうか。
何れにせよ、お互いこの夏の間に変わったなと思う。



すっかり住み慣れた家屋。いつもの場所。変わりのない夏の夜の空。
気が遠くなるほど遠い場所から届く千古の星の瞬きに、既視感を覚える。
青天を覆い尽くすほどの花びらが揺られる様は、不思議と、この情景に似通っていた。
目に焼き付けたその儚げな残像は、それでいて今日の今日まで色あせずに留めてある。
花と、空気と、金属の匂い。ノイズ混じりの声。その全てが、瞼を閉じれば明瞭に蘇る。
「どうしてこんな話をするのか、って思った?」
「ええ、まあ…唐突だな、とは思いましたけど。でも、そうしないといけないって、思ったんでしょう?」

器量は悪くとも、察してくれる。詮索もなく、答えだけが返ってくる。
こんなに心地の良い相互関係が成立していることが、何よりの幸運とさえ思うことができる。
「…まあ、そうだね。けじめというか、腹を括るというか。君と離れた時に思ったんだけど、その辺をはっきりさせておきたかったんだ」
「僕と?きっかけがそれですか?」
「うん…色々あったけどさ、やっぱり、僕は幸せだよ」

他に何も要らないなんて思い切ったことは言えないけれど。
けど、これ以上僕の心を満たす何かが思いつかないなら、そう思いこむことだって容易い。
「…返事になってませんよ」
「その返事って言うのは、君を納得させ得るだけの説得力を持った言葉かな?」
「…そうではなくて、貴方の行動理由を聞いているんです。なんというか、その、あまりに突拍子もないというか…」
「支えがあるから立っていられることに気付いたんだ。それだけだよ」
「はぁ…どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ」

それ以上聞き返すも無粋と思ったのか、そうでないのか、釈然としない顔で永野は黙り込んだ。
風はそよぐ程度に涼を運んでくる。
暑さの中で涼しさを感じる。
深い夜の中に光る星を見つける。
取り合った手に、自分という存在を知る。
永野は、やはり何も言わなかった。
しかし、重ねた手を離しさえしなければ、見えなくても、言葉がなくても、確かにそこに在ることが分かる。
それだけで良い。それだけが全てだ。
「少し遅くなったけど、これから、頑張らないとな」
「本当ですよ、全く…それにまだ、何も始まってすらない。本土に帰ってからが、本番なんですから」
「…それもそうだ」
「しっかりしてくださいよ、隊長」

毎夜、気が付けば空を眺めている。
既に習慣付いてしまったその行為を、きっと僕は、これからも不意に思い出して、また同じように頭上を仰ぐんだろう。
それにしても、結構な間眺めているはずなのに、未だ僕は流れ星というものを見たことがない。見てみたいと思う。
その僕の行動が、この部隊のそもそもの役目だったことに思い至るまで、時間は掛からなかった。
勿論、夜の空、更に言えば空の向こうの天体を観察するという方で、流れ星を見つける方ではない。
ああ、でも、もし後者が仕事だったら、どんなに素敵なことだろう。
僅かに強く吹き付けた風が、庭の背の高い草をさざめかせた。
すぐ傍から、遠慮がちな視線が向けられているのを感じた。
「…石塚さん?」

そんな素敵な仕事を、一度やってみたいと思う。
ささやかでいい。それはきっとけじめになる。
決別でなく、再びここに至るための。
そんな素敵な仕事は、きっとここでしか出来ないから。
「これからも、その先も、きっと頑張れるさ」

だから、もう暫くだけ、このままでいよう。
重ねた手は、頑ななまでに動かなかった。