夏の日にさよなら . 0

努力とか、根性とか。今時流行らないような古くさい言葉が好きだ。

昔、なんの経緯か永野と好きな言葉や格言とかいう話題になったことがあって、僕はそう答えた。
座右の銘と言うほどご大層な文句ではないし、他にも気の利いた言いようがあったかも知れない。
永野は、あからさまに顔を顰めて不思議そうに言った。

何故ですか?

その時のことはよく覚えていた。台詞も一字一句間違ってはいない。
永野の口調がどこか固いのは、きっとそれが分相応だった頃の記憶だからだろう。
今では階級なんてあってないようなものだし、よくよく思い出してみれば永野の方が幾らか上官だったりするのだ。
人生何が起こるか分かったもんじゃない。
隊長の方が階級が下なんて、よくもまあ上からのお咎めもなく気楽にやってこれたものだと思う。

結局、最後まで大して盛り上がることもなくその話は終わってしまった。
僕が永野に返事をしなかったからだろう。
その所為で永野の答えを聞きそびれてしまったのは残念だった。
今、聞いても良い。
しかしあの時に聞いておきたかった。
それに意味があるとは思えないけれど。
もし永野が再び同じ議題を僕に投げかけてきたら、きっと僕はあの時胸の内にあったものと同じ言葉で答えるだろう。
最後に自分を支えてくれるものは努力と根性で培った勇気だと、僕は今でも信じてる。
決してエースという名に傲ったことはないけれど、僕には素質があった。
努力はほどほどでどうにかなるし、根性は厳しい訓練を積めば嫌でも身に付いてしまう。
仲間内での凌ぎ合いや、階級社会の仕組みというものの一端を知るに至り、ある程度の理不尽を受け流す鈍感さも覚えていた。
けれど、潜在的に努力と根性を持ち合わせ、必死に這い上がることができる人間を僕は知っている。


努力とか、根性とか。今時流行らないような古くさい言葉が―…


きっと、それが本当の才能なんだよ。永野。





桜が咲いていた。

昨年より開花が遅かったらしいが、きっと、今僕の頭上で風に揺られるまま花を散らすそれは、去年のものより見事だろう。
雨に濡れても色あせず、淡く色づき空を覆う様は、その土地を訪れて日の浅い僕にすらそう思わせるほど、強く儚げにそこに在る。
飽きずそれを眺めていた。
つかの間ではあったが、周囲の喧噪が遠のき、花弁の舞う青天が目に映っている。
どこまでも。皮肉なほどの果てない広さと暖かな陽光に目を細めた。
そんな季節だった。




思ったよりも冷静に対応することが出来たことに、場違いな安堵を覚える。
いや、初めから慌てることなど何もなかったのかも知れない。
ここへ押し寄せると予測されていただけの数は大分上回ったが、それはまだ最悪と覚悟していた規模には及ばない。
予想はしていた。あらかじめこうなると分かっていた現状であれば、何を今更血迷うことがあろうか。
息を整え、残弾を確認する。
大丈夫だ、まだ余裕はある。体力も持つだろう。
機内の籠もった空気で限界まで肺を満たすと、浅く長く吐き出す。
今ここで焦ってもそれは冷静のままに判断を狂わせ、思考に過誤をきたすだけだ。

レーダードームに映るのは、気持ちよく澄み切った青空と、満開の桜の木々をバックに佇む優美な城郭。
決戦とさえ言われた、この大規模な攻防戦の要。
惜しむらくは塹壕だの何だのを作るためだとかで、すっかり周辺が更地になってしまっていることだろう。
それでも、この高さから眺める城と点在する桜の組み合わせは中々風情があった。
「石塚さん」
「ああ」

緊張を帯びた声音に短く応え、アクセルを踏み込んだ。九時の方向。
加速する。ほどよく掛かる圧力が身体を押さえつける。
友軍の旺盛な砲撃を食らわされて尚、勢いも衰えずこちらへ向かってくる有象無象。
「各自、味方が撃ち漏らしたやつを優先。後は適当にやれ」

事前に役割を決めてあるため、戦闘中は大ざっばな指示で十分。敵の種類もその攻撃パターンも変わらない。後は戦況に応じて、臨機応変に。
敵の規模を肉眼とレーダーで確認する。先ほどの第二波に多少のアクセントを加えた程度。
まだ、これくらいでは足りない。生ぬるすぎてこのまま身体が冷えてしまいそうだ。
この僕を興醒めさせるか?
呟きを噛み殺した。流石に不謹慎だろう。
殺すなんて半端なものじゃいけない。来るなら跡形も残さず消し去るつもりで来い。
こっちはもとよりそのつもりだというのに、お前らにはそれが足りない。
其方にその気がなければ、此方も応えてやれないじゃないか。

塀を跳躍して越える。突然目の前に姿を現した巨人に無数の赤い眼が一斉に注がれる。
着地の反動を逃がすように膝を屈し、伸ばす。同時に上半身を上げつつ銃口を向け、フルオートで引き金を引いた。
眼前に跋扈する幻獣の群れを見据える。
「石塚さん、お供します」
「ああ、僕らで無傷の奴らを削ろう。一人頭十体の勘定でどうだ?」
「上等です。今日は、負ける気がしません」
「俺もだ」

気を抜いた瞬間に死ぬという状況で、味方同士功を競うか。
冷静に判断する頭に反比例するように高ぶる神経。悪くない。
落ち着こうなどとは微塵も思わない。折角気が乗ってきたところだ。自分で水を差してどうする。理性に縛られない。今この時だけは面倒な何もかもを忘れていられる。
そこに敵がいる。だから殺す。その一時だけ、僕はこの場所に自分を置き忘れて無心になる。
冷静に狂う自分を責めるのは生きていればいくらでもできることだ。
生きてさえいれば。
「まだ先は長い。少しでも危ないと思ったら退いて体勢を立て直せ。以上」

それだけを告げて無線を切った。
途端に殺しきれなかった声が漏れて、それで初めて気づく。
笑っている。
目は目前に迫る敵だけを見ている。瞬きを忘れる。感覚がなくなる。呼吸の仕方が思い出せない。自分の中の人間が遠のく。
この感覚は、危険信号だ。
毎度、思い出したようにぶり返す疲労でとんでもないことになっているのが頭に浮かんだが、今は考えない。
今はこの流れに乗らないと、生きてここから帰れない。
息もできないほどの疲れなら上等。何日か眠れば回復する。
生死を彷徨うほどの極度な疲労。それだけが今日を生き抜いた僕にただ一つ残るもの。

一体、二体…三体。爆散する異形。撒き散らした体液共々霧のように消えていく。
形が無くなる寸前にそれを踏みつぶして走った。息をつくまもなく銃弾をたたき込む。
五体目を倒したとき、追いすがる群れから距離を取って無線をつけた。
途端にひび割れたノイズ混じりの大声が聞こえてくる。
「……さん!っ、くそ、聞いてるんですか、隊長!」

心底悔しげに悪態を付く切羽詰まった声に、悪いとは思いつつ笑ってしまった。
ここには、殺戮と硝煙の臭いしかないと思っていたのに。
こんな場所でもこんな風に笑えている自分のおめでたい性根を、この時ばかりは心底呪った。




僕は毛嫌いしていたはずの戦争を心から満喫していた。
多分あの場にいた誰よりも。それだけの自覚があった。
後にも先にも、もうあんなことはなければいいと思う。

後日、僕は搬送された病院のベッドの上でそう思っていた。願っていたと言っても良い。
それは多分叶わない願望だと、心の底で諦めていた。
永野はこの病院にいるんだろうか。それとも、他の病院へ運ばれたんだろうか。それだけが気がかりだった。

他の部下の顔を一人一人思い浮かべようと試みるも、途端に思考が霞みがかり沈んでいく。
一人一人の名前は記号のような感覚で頭に残っていたが、肝心の顔が思い出せない。
面と向かってでないといくら謝罪しても足りない。その顔が思い出せなくては、何も果たすことができない。
たとえそれができたとして、思い浮かべただけの彼ら、彼女らは表情を変えない。
せめて人を呪い殺せそうなほどの表情で僕を睨んでくれれば、どれだけこの心は救われるだろう。
もうそんなことでしか自分を許せない。そんなことすら二度と叶わない。
身体は眠ろうとしている。意識はあるが、瞼を開くことさえ億劫だった。
もう誰もいなくなった。また二人だけになった。

永野、またどこかでお互い顔を合わせるようなことがあったら、そのときは―…







正義と言うには烏滸がましい。強いて言うならお節介。
口にするだけで笑えてくるような。そんな言葉が胸にあるから、僕はこの手に銃を執る。


努力とか、根性とか。今時流行らないような古くさい言葉が好きだ。


僅かな望みを手に。都合の良い贖罪はいらない。一生背負い続ける重荷さえ一歩の糧に。

今も昔もそれだけは変わらない。

止まることのない歩みは、どこかの誰かと、何かを守るためのもの。