疾走少年 . 6

さて、どうするか。
相手の目的が分からない以上、下手に行動を起こすのはあまり得策とは言えない。
とにかく相手のことを探るんだ。そうすれば自ずと対処法も決まってくる。
ああ、それにしても永野の愛妻弁当は最高だ。(僕はこの文章に語弊はないと思っている)
しかし折角の弁当もこの妙な緊張感に包まれた空間では味気なく感じてしまう。
勿体ないとも思うのだが、今はそれどころではない。非常事態だ。
当の永野はパイロットへ配属になるやいなや、装備に点検と休み時間はずっとハンガーに入り浸りだ。
昼も一緒に食べようと思っていたのに、話しかける間もなく教室を出て行ってしまうし…。
そこを彼に捕まり今に至るわけだが。

「石塚」
「何かな」
「…怒ってるのか?」
「どうして?」
「……いや、何となくだ」

自分でも固い声で返事をしているのが分かった。
彼を避けていた訳じゃない。
ただ業務連絡で一言二言言葉を交わすのみで、それ以外は一切干渉していなかったはずだ。
なのに、何故今になって突然昼食の誘いが来るのか。
食堂へ入るなりその場に居合わせた者はそそくさと退散していくし、頼みの綱である嶋はチャイムが鳴った途端に忽然と姿を消した。
そして永野は新しい恋人に夢中。
…頭が痛かった。

「石塚」

立ち去る言い訳を考えながら、ようやく弁当を空にした時に向かいから声が掛かる。

「何かな」

一息おいて目線を合わせると、大塚が思いの外真摯な表情でこちらを真っ直ぐに見ていた。

「…永野のことだが」

ああ、どうせそんなことだろうと思った。
意識して作った笑顔はやはり歪だっただろうか。

「やり残した業務があってね、今のうちに済ませてしまいたいんだ」
「逃げるのか」
「そんなんじゃないさ」
「じゃあ話しを聞いていけ。すぐ終わる」
「聞くだけなら」
「ああ…それでいい」

今まで生きてきた中で、今この時ほど早々に諦めがついたことは無かっただろう。
安っぽい挑発に乗ったとかじゃない。これは、無条件降伏というやつだ。
どうした、僕。…今日は最高に気前が良いじゃないか。

「お前のプライベートをとやかく言うつもりはないんだ」
「永野に何か言われたのか?」
「石塚…」
「分かってる…ちょっと言ってみただけだ。もう、大丈夫」

今は、という言葉だけが喉につかえて出てこなかったことを有り難く思った。
感情的になるのは良くない。
僕はそれをここ数十時間で身に染みて吐き気がするほど感じたはずだ。

「それで?」

彼の発言を促した後、少しだけ息を止める。
外側は笑っているから大丈夫。内側のコントロールを取り戻そうとしている僅かな時間、僕は完全に無防備だった。

「お前とは、一時休戦だ」
「…一時休戦?」
「ああ」
「……」
「石塚?」
「……」
「……」
「…っはははは」

完全に不意を突かれた。奇襲に成功しておきながら、何が一時休戦だ。
まさか彼の口からこんなに面白い冗談を聞くことが出来るとは、今日はとても良い日だ。
こんなに笑えることが他にあるだろうか。
僕の発作が落ち着いたのを見計らって、大塚が口を開こうとする。
それを察知した僕は機先を制し、未練がましく最後に一太刀くれてやった。

「この場合、どちらが劣勢だったかな?」
「勝負は先に冷静さを失った方が負ける、というのは定石なのか?」
「ああ……ご高察痛み入るよ」

全くその通りだ。
それを今更、部下に諭されるなんて。

「それにしても…平和的に解決して何よりだ」
「石塚、俺は…」
「君はそれを誇って良い」

言い含めるように、諭すように、断固とした口調で言葉を遮る。
俺は、に続く言葉はきっとこうだ。
―まだ諦めたわけじゃない。
弁当の包みを持って立ち上がり、椅子を戻した。大塚は依然としてこちらを威嚇するかのような鋭い目を向けている。

「君の英断で無駄な血が流れずに済んだんだ」

僅かに首をかしげると、何か言いたそうにしていた大塚は口元に僅かな笑みを浮かべ、追い払うような動作で二、三度手を払った。
僕は大人しくそれに従い、食堂を後にする。
日は高い。そして蒸し暑い。まだ昼休み。
何だろう。
無性に、永野に会いたくなった。





「さっき、大塚さんが来ました」
「さっきって…いつの話しだ?」

機体のコックピットへ潜り込んで何やら調整をしているらしい永野が、声を張り上げて言った。
つい先程ここへやってきてからというもの、「少し待ってください」と言ったきり顔も見えない状態での対話が途切れ途切れに続いている。
この間の戦闘で破損した部位をなんとか修復したばかりで疲れ切っていた整備の面々は、流石に誰も残っていない。
いつの間にか、もう深夜だ。
会いたいと思ったものの、それを実行に移すまでに月が出るまでの時間を要したのは、昼間大塚に話した「やり残した業務」というのが思いの外多かったからに他ならない。
何気なく覗いたハンガーにまだ灯りが点っていた時は流石に呆れたが。
授業時間以外、永野は一日中この大きな相棒と一緒なのだ。
てっきり嫌がるだろうと思っていたのだが、やるとなったら徹底的にやるつもりらしい。
僕自身、ほどほどに疲れているし眠気もあるのだが、こうなったら永野に付き合ってやるしかないと腹を括る。
僕が思っている以上に…昨日のあの言葉が、相当効いているんだろう。
永野の事を分かってやれるのは、僕だけなのだ。
事実、思い出すだけで無性に嬉しくて顔が綻んでしまうのが分かる。それがまたおかしかった。
その永野はというと、返事も返さず黙々と手を動かしている。

「…永野」
「はい」

狭苦しい空間で永野が身動ぎした。それだけだ。振り向いてもくれない。
愛しの君の出迎えを待たせておいて、なんて素っ気ないんだろう。

「大塚が、なんだって?」
「あなたが大塚さんのことをどう思っているのか、少しでも話してくれたら僕も話します」
「駆け引きなんて、永野らしくない…何がそんなに気になるんだ?」
「嫌なら付き合って下さらなくても結構です」

素っ気ないどころか、どこか棘がある気がするのは僕の気のせいだろうか。
別に隠すようなことではない。渋る必要もないような話しだと言ったのに、何故永野は大塚にこだわるんだろう。

「…昔、色々あってね。僕は今でもそれを根に持ってる。これで満足か?」
「大塚さんと、ですか?」
「それを聞きたかったんだろう?」
「ええ、まあそうなんですけど」

不意に永野が身体を反転させ、僕を仰ぎ見る。
薄暗いコックピットの中で眩しいくらいに発光するモニターが内部の陰影を色濃くした。

「あいつは、お前が居なかったら本当にどうにかなってしまうだろう、って言ってましたよ…全く、何かあったんですか?」

そう言って永野は呆れたように笑った。
疲労の色が濃いようだが、その顔はとても晴れやかに見える。
きっと、楽しいんだろう。
懐かしいものに触れながら、昔のことを思い出して一喜一憂する。多分、そんな感覚。
僕がこれを見て思い出すことは、あまり楽しい思い出ではない。

「永野」
「はい」
「…永野」
「何ですか」
「……いや、ごめん。何でもない」
「…疲れてるんじゃないですか?先に帰っても…」
「僕は……」

それ以上、何も出てこない。
ひょっとしたら先なんてないのかも知れないけれど。
そのまま黙り込んでしまう僕に、何を思ったか永野が手招きをする。
…降りてこい、ということだろうか。いやこの状況下ではそれしか考えられないのだが。
けど、何のために?
永野から誘ってくれたとはいえ、正直気乗りはしなかったが(第一、人一人ですら狭いというのに二人ともなれば定員オーバーだ)仕方なく、僕は機体の内部に滑り込んだ。


空調が効いているだけ外よりは大分マシなはずのハンガーだが、それは昼間の話しだ。
夜ともなればそれなりに涼しくもなるし、空気が通らないうえ狭い機体の中とは比ぶべくもない。
シートの後ろの僅かな空間に収まりながら、軽く中を観察する。
ここに配備されている戦車のマニュアルは一通り目を通したものの、人型の中には入ったことがなかった。

「…内部も多少違うんだな」
「ええ、大分使われずに持ち腐れてましたが…そこそこ新しい型のようです。兵器も進歩してるんですね」

自分が前線でドンパチやっていた時のものとは、どこか違う。
馴染むまでには時間が掛かるだろうが、それでも動かせないことはないと思った。
動く、というのはすぐに実践で扱えるか否か、というレベルの問題だ。
そこまで真剣に考え込んで、ふと我に返る。
…僕が乗る訳ではないのに。
昔取った杵柄とでも言えばいいのか。一種の職業病だろう。
けど、永野なら十分に扱えると思った。
装備といい数値といい、弄れる部分は既に自分が扱いやすいよう設定し直されているのがその証拠だ。

「…大丈夫そうだな。永野は」
「石塚さんは、駄目ですか?」
「正直に言うと、そうだね…気は進まない」
「そうですか……僕も、これを見るまではそうだったんですよ」
「これ?」

機体です、と言って永野はようやく手を休めてこちらに顔を向ける。

「不思議ですね…何となく、ここにいると落ち着くんです」
「…僕は、このまま二人で中にいると酸欠になるんじゃないかと思って気が気じゃないんだが」
「まあそう言わずに」

先程の態度とは一転したソフトな返答に内心ほっとしながら、シートの上部に肘を突いた。
ぐう、とどこかで聞いた音。画面に向き直っていた永野が動きを止めたのが分かった。
その様子に声を出さないようにして笑う。
まだここにいると分かっていれば夜食に何か買ってきたものを。

「昼はちゃんと食べたのか?」
「……お気遣いなく」
「僕が気を遣わなくて誰が気を遣うんだ?放っておいたら、いつか疲労か熱中症で倒れるんじゃないかって冷や冷やするよ」
「…石塚さん」

息をついた永野は、深々とシートに凭れると片手で目を覆った。
こんな暗い場所で画面を見ていたら、目も悪くなるし何より疲れるに決まっている。
返事の代わりに頭に手を置いてやると、何がおかしいのかその口元は弧を描いた。

「…やっぱり、変です。ここが死に場所になるかもしれないと思ってた頃は、この席に座るのが恐くて仕方がなかったのに」
「そんな考え方をしていたら、誰だって恐くもなるさ」
「暗くて臭いの籠もった密室に、満足に身動きもとれないようなまま何時間も居るなんて…それが当たり前だと思っていたのに、しばらく距離を置いてからはどうして僕はあんな状態で戦えたんだろうって」
「そんなことを考えていたのか…」
「おかしいでしょう?」
「…いや、おかしくなんかないよ」

油断が死に繋がるような極限状態に置かれれば、誰だって周囲の不満や不自由になど構っていられないだろう。
でも、僕はそんな風に考えた事など一度もなかった。
今でも、それが当たり前だと思っている。その状態をずっと継続している。
ならば僕は何が不満でこれに乗りたがらないのだろう。
永野の頂頭部を眺めながら、気が散漫になってきている自分に気が付いた。きっと眠気と疲れの所為だ。

「何だか、今日は優しいですね」
「君も、今日は言動がらしくないな」
「いけませんか?」
「特に問題はないね」


「あの……多分、ですけど」
「うん?」
「貴方が居るからだと思います」
「…何が?」
「どんな環境にあっても、貴方の下なら何も気に掛けることなく戦えた。…貴方なら、命を預けられると、それだけの価値がある人間だと知っているから」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど…責任重大だな」
「今更何を言うんですか…全く」

今になって、ふと思った事がある。
永野は暗くて角度的に顔の見えないこの場所だからこそ、こんな話しをしているのかも知れない。
それはほとんどの確率で、外れているとしか言いようのない予想だったけれど。

「じゃあ、僕たちは二人で一つってわけだな」

何訳の分からない事を言ってるんですか、という永野のツッコミを待ってみたが、反応がない。
息を潜めてじっとしていると、連続的に響く機械音を合間を縫って微かに寝息が聞き取れた。
ここで一晩明かすつもりじゃあるまいし…全く手の掛かる、と思わずため息が漏れる。
頬をつねってやろうと後ろから手を伸ばすも、直前で思いとどまった。
十五分…いや、十分だけ待ってやろう。
今なら立ったままでも寝付けそうだったが、辛うじて堪える。ここを出る前に照明や戸締まりの点検をしなければ…。
シートの横から顔を出して寝顔を伺おうとするも、手に覆われてしまっていて分からなかった。
あと三分…。

今も昔も、必ずどこかに君が居て、仲間がいて、その為に戦った。
僕と、僕の棺は、戦場で踊り続ける事が出来た。

「今まで、ありがとう」

多分、弱いとか、強いとかじゃない。
僕は僕に出来ること全てに力を費やす。それだけだった。
どこかの誰かと、他でもない君のために。
多分この先何があっても、それだけは変わらないだろう。
あと、十秒。
九、八、七、六…。
目元を覆う手を掴み、除ける。
五、四、三、二…。
顎を掴んで無理矢理顔を上げさせ、額に口を寄せた。

「これからも、よろしく頼むよ。永野」

眠気など無かったかのように目を剥いて、徐々に赤くなる様子をしっかりと確認した後、僕は逃げるようにしてコックピットを這いだした。
すぐに我に返ったのか後を追ってくる足音が聞こえる。
本日二度目の大笑いをしながらの全力ダッシュは、ハンガーの出口に差し掛かったときに消灯を思い出した僕が立ち止まり、背後まで追いついていた永野とぶつかり地面にもつれて転がるまで続くのだった。