疾走少年 . 4

現在学校として使用されている施設でまともに空調が効いているのはハンガーくらいだが、勝手ながら仕事部屋として占領している通信室は他の部屋に比べれば多少はマシな方だ。
積み上げられた紙の束を苦々しげに眺め、眉間を解すようにして指をやる。
腹の底からため息をつきながら、安っぽい椅子に背中を預けるとかなり大きな音を立てて軋んだ。

戦況は膠着状態にある。
赴任してきたころは敵も積極的に攻めてくるようなことはなく、散発的に出撃を繰り返す日々だった。
だが、今はどうだろう。特に8月を過ぎてからというもの、敵は急に戦力を増強し、結果的に押されるような形で膠着に陥っている。
敵の目的は何だ?何を焦っている?

(…永野には悪いことをした)

自分で仕向けておきながら、今更のように偽善ぶった台詞に心の中で苦笑を漏らした。
ああいう風に言えば永野は僕に逆らうことが出来ない。
やはりというか、配置換えの旨を聞いた永野はただ一言「何故自分なのか」と問いかけただけだった。
それは反発というほどのものでもなく、承諾というほど前向きな意志が感じられるものでもない。
内容を理解した上での私的な疑問に過ぎなかった。

分かっていた。だからありのままを伝えた。
この状況で一番コマとして有用に使えるのは永野だ。
そういうことだけは察しの良い永野のことだから、切羽詰まって余裕のない現状も理解してくれた事だろう。
そもそも、永野は僕に対して逆らうという行為が頭の中にない。そう、まるで刷り込みだ。
その例えに何故か微笑ましいものを感じて、思い出し笑いをすると、気が緩んだのかようやく眉間の皺を解くことができた。



しばらく目を閉じて身体と頭を休める。
狭い室内にずっと籠もっていると、時々気分が悪くなり、酷いときには吐き気すら催す時がある。
そういう時は意識的に深呼吸をしながらそれが消えていくのを待っているのだが、未だにその感覚には慣れなかった。
恐らく心身の疲れか、トラウマ的なものだろうとの自覚はあるが閉所恐怖症などという類のものとは違う気がする。
最近はそんなこともなかったのだが…この妙な感覚を覚えたのは、いつからだろう。
血と、硝煙と、機械油の匂いが脳裏を掠めた。

(僕たちがしているのは、戦争だ)

当たり前のように怪我もするし、下手をすれば明日死ぬかも知れない。
明日どころか、一秒先のことすら分からない。そんなぎりぎりな均衡で成り立つ世界に生きている。
そうだ。死ぬことすら当たり前なのだ。それらを間近で眺めながらも、今の今まで生きている自分がいる。
死神─何処かの誰かの、そんな昔の呼び名を思い出した。
怪我をするなとは言わないし、立場上そんなことは言えるはずもない。
自分を庇っていては戦うことなど出来はしない。
それくらいなら、どこかの誰かのために戦えと僕は言うだろう。
それが指揮官としての本音であり、戦う者としての本懐であり、仲間に対しての最大の誠意だろう。

(しかし、それらは全て建前だ)

例えば─永野には怪我なんてしないで欲しい。まして死ぬなんてことは考えたくもない。
無理だと言うことも分かっている。しかし願うことは自由だろう。
願うことは人間に残された唯一の尊厳だ。



少しだけ頭痛がした。気分が悪い。じわじわと、あの感覚が襲ってくる。
身動ぎした所為で椅子が軋み音をあげた。

永野が死んだら、自分はどうなる?

そう思うと、再びあの狭いコックピットに一人永野を追いやろうとしていること自体、気が触れているとしか思えなくなってきた。
永野とは何度も死線を彷徨った苦々しい思い出がある。
互いに知り合ってからの年月は決して長くはないだろう。
しかし永野と出会った頃から日常の全てが凝縮され過ぎて、それまでの自分の生活が淡泊に感じられるほどだ。
理解者、戦友、恋人─その間柄を形容する言葉を探せば幾らでもあるだろう。

(古女房、なんていうのも面白いかもしれないな…今の永野は、まさにそれだ)

自分でも本気なのか冗談なのかよく分からない御託を思いつき、少し満足した。
しかし言葉というものは、本来の意味を劣化させる。
単純に好いているというのも事実ではあるが、自分にとっての永野は、きっとそれ以上の何かだ。
そんなものを失うなどありえないし、あってはならない。

戦場で嫌というほど味わった悪夢のような出来事が、自分のどこかで永野を失うことへの恐れを肥大させ、無意識に考えないようにさせていたのだろうか。
もしそうだったなら、そのままでいさせて欲しかったと思う。
こんなに気分が悪くなるとは流石に予想外だ。
きっと自分はこの島の毒気にあてられて、何もかも甘くなってしまったのだろう。

誰だって、何かを失うことを恐れる。しかしそこからが本題なのだ。
逃げるか。立ち向かうか。諦めるか。
どれが最善かは不定であるし、また何が正解なのかも不定だ。
しかし、今はただ抗うしか選択肢はない。
─みんなと本土へ。誰一人死なせずに。


そこで一端止めどない考えを打ち切り、休憩の時間を終える。
時計を見ると15分ほど過ぎていた。…まずい。すぐに残りを片づけなくては。

「…さて」

女房が待ちくたびれる前に帰らなくては。
自分で思いついた名称だが、中々愛着の沸く言い回しだと思う。
そういえば、最初は何を考えていたんだったかな─。
不意に浮かんだ疑問の答えは出てこなかったが、大体予想はついた。




うだるような熱さも、ここまで来ると結構どうでも良くなってくる。
歩調を緩めることなく家までの山道を歩いていると、周囲の木々からステレオで蝉の鳴き声が聞こえてくる。
永野はそれを五月蠅いだの、暑さが増すだの言っていたが、蝉はどこへ行っても鳴いているし、自分はそれが嫌いではなかった。
既に日は落ちつつあるが、まだ大分明るい。流れる汗を拭うことも忘れただ黙々と歩を進める。

(帰ったら、まず風呂に…いや、永野という手も…)

食事か、風呂か、永野か。
仕事帰りの夫に対する常套句(と言ってもいいのかは甚だ疑問だが)も中々的を得ている。
家に帰ってすることと言えば大概そのうちのどれかしかない。
先程、どん底まで沈んだ気分もそれだけで大分晴れやかになってきた。
自分は自分で思う以上におめでたい性分なのかも知れない。
自然と軽くなる足取りに気を良くしながら坂を登り切った石塚は、思い出したように伝う汗を拭った。