ひまわりと飛行機雲 . 9

…そうだ、この日のために。
この日のために前々から手を回して部屋を確保していたんじゃないか。
石塚さんにも黙って事を進めていたのは後ろめたく感じもしたが、
居候という状態が既に普通ではないのだから、これでようやく平常通りと言えるはずなんだ。
僕はここに住む。ここが僕の家。ここが僕の帰る場所。
それが本来あるべき状態じゃないか─


思ったよりも体裁のしっかりしている階段を踏みしめている間も、永野の葛藤は激しさを増すばかりだった。
もう決めたこと、何を今更。
そう言うことでここを家と認識せざるを得ないように仕向け、奥底の違和感を押さえ付ける。
…どこまでも女々しい感情を捨てられない自分が嫌になりそうだった。
部屋の番号を確認し、前もって渡されていた鍵を使い扉を開ける。
どのみち、現在の入居者は永野しか居ないとの話を事前に聞いていた。
孤島の、さらに寒村となるとこういった寮は活用される機会に恵まれないのだろう。


室内は真っ暗だった。
部屋に入り手探りで照明をつけると素っ気ない部屋の内装が飛び込んでくる。

「どんなものかと思えば…良い部屋じゃないか」

永野の後に続き靴を脱いで部屋に上がった大塚は感嘆の声を漏らした。
永野もそれを見て満足げに頷いて見せる。

「そうですね。必要なものは粗方揃っているようですし。文句なしです」

辺鄙な場所にある石塚邸に比べても、更にこの寮は学校から結構な距離がある。
しかし元々が寝床確保の目的だったのだから、第一に安眠できる環境があればそれで良いといった選択でここが選ばれたのだった。
先程脅かされて心配していたすきま風もなさそうだし、一見したところ欠陥の心配はなさそうだった。
中々良い物件だったな、と永野が納得している内に大塚は辺りを物色し始めている。
ソファもあれば冷蔵庫もあるしテレビもある。
石塚邸とは違い生活感と言ったものは感じられないが、生活する分にはこっちの方が幾分快適だろう。それで十分だった。

永野は早速中身の8割が衣類で構成されている重たい荷物を部屋へ置きに行った。
自室も設備だけはしっかりしている。これなら家具は買い足さなくても不自由しないだろう。
マットレスが剥き出しのベッドに腰掛け、一息を吐く。
大塚がやって来て、永野に勧められるままに隣に腰を下ろした。

「…すみません」
「何がだ?」
「いえ、ちょっと言ってみただけです」

大塚が不思議そうに黒々とした目を永野に向ける。
…黒は黒でも漆黒は理想の黒に最も近い色。
全ての光を吸収する本当の意味での黒。
もし例える言葉があるとすれば、まさにそれだ。
大塚の黒い目にどこか果てのない深さを垣間見た気がした。
じっと顔を見詰めたまま放心している永野に大塚は一度首を傾げたが、深く考えないように思考を切り替えると大きな手の平で永野の頭を鷲掴みにした。

「いたた…何なんです?」
「…いや、やってみただけだ」

先刻と似たような言葉で返されて若干ふて腐れる永野。
対照的に大塚は機嫌良さげに笑みを向けるだけだった。
頃合いかな、と壁に掛かっていた時計に目をやる。
窓から覗く空はまだ僅かにではあるが明るかった。完全に日が落ちるまではもう少し余裕があるだろう。

「見学もさせて貰ったし、そろそろお暇するかな」
「…そう、ですか?別にゆっくりしていっても…」

言い掛けて、永野はふと自分が背負ってきた重たい荷物を目にした。
…そうだ。荷物の整理もあるし、まだ飯も食べてないし…やることは一杯ある。
それを察してか、大塚は困ったように笑うと立ち上がった。
永野もそれに続いて玄関へ向かう。

「…また、寄っても良いか?」

ノブに手を掛けながら大塚が呟いた。
永野は少し驚きながらも頷き肯定を返す。
はにかんだように笑いながら片手を上げた大塚は「じゃあな」と言って部屋を後にした。
急に疲れが込み上げ、脱力したように永野はソファに凭れる。

「…色々あったな、今日は」

胃が激しく空腹を訴える。汗もかいたし風呂にも入らないと…。
しかし、一度気が抜けるとどうしようもないほどに疲れている事に気付く。
…今日はこのまま寝よう。横になってしまえばこっちのものだ。
自室に戻り適当にベッドメイキングを施すと、永野は勢いよく仰向けに寝ころんだ。


染み一つ無い白い天井。
脳裏に焼き付いて離れないのは木造の純日本家屋(と言えば体裁は立派に聞こえる)
天井の染みが人の顔に見えたりして、よく寝付く直前まで寝ぼけ眼でじっと見ていた気がする。
今ではそれも酷く懐かしい…決して恋しい訳ではない。
住み慣れてしまった人の家も、あの人の声も。既に記憶の中の産物。

閉じかけていた瞼を僅かに持ち上げる。
やはり目に入るのは自分の知らない天井。
きっと、このままこの部屋に一生居着かない限り見慣れることはないだろう。
白い壁紙には当然のように染み一つなかった。


眠気が込み上げると同時に、押さえ付けていた本音が燻り出す。
今までは一人なんて当たり前だったのに、いざとなると寂しいと思う感情を抑えきれない。
あって当たり前の物がない。居て当たり前だった人が居ない。
…僅か数十時間でホームシックだろうか。

制服もろくに脱がずに、それでも暑さを凌ごうとシャツをはだけさせる。
部屋の照明を消そうとする気力もなかった。
ただ、ひたすらに眠たかった。寝てしまいたかった。
明日になれば、また会える。
その時にはちゃんと話をしよう。聞いて貰えないかもしれないけど、きっと伝わるはずだ。
…何を、どうやって話せば良いだろうか。

思考するほどに霞みがかる意識。
寝付くまでにそれほど時間を要することなく、永野の思考は中途半端に途切れた。