ひまわりと飛行機雲 . 8

コンクリートと縁のない土の通学路を、街灯が少ない濃密な夜の闇を背後に大塚と永野が歩いている。
二人は夕方にキャッチボールをしていたはずなのだが、呆然としている永野に大塚が一緒に帰らないかと声をけるまでにかなりの時間を要した為、こんな時間になってしまったのだ。
一緒に下校という友達同士では当たり前の行為ですらぎこちない二人の会話は皆無に近い。
もっとも、永野はそれすら気にする余裕も無い。
内心では慌てながら会話の糸口を探し、どうにか掴んだ大塚が永野に話を振る。

「あー、永野。石塚の家に帰るんだろう?今、あいつは機嫌が悪いから…その、なんだ、気をつけろ」
「…何に気をつけるんですか。はあ…」

溜息をついてそう返した永野だが、自分が戻る場所はあの人の待つ家でないことに思い当たる。
自然にあの人の家へと向いていた足も気持ちも忌々しい。自分はあの人から離れる覚悟がまだ出来ていなかったのだ。
自分への怒り、あの人への葛藤、今後の身の振り方、様々な要因が頭をもたげ悩ませる。

「ああ…なんて情けない軍人なんだ自分は…!」
「あ?」
「即座の判断と迅速な対処は必須事項だというのに…自分は…自分は…」
「え、おい。何処に行くんだ!」

自虐し、説明もせずいきなり反対方向へ歩き去っていく永野。
呆気にとられていた大塚が慌ててUターンする。踵を踏んで履いていた靴が突然の摩擦に耳障りな音を上げた。
脱げかけた靴をその場でしっかりと履き直して永野の背中まで追いつく。
その背中越しに見えた建物は、

「…寮?」

自宅で暮らしている大塚とはあまり縁のない建物である学生寮。ここに何の用があるのだろうか?
永野が重たげに持っている大きな鞄に目をやり少々考え込み、一つの結論に至る。

「まさか…石塚の家を出たのか?」
「うわぁ!?うあ、大塚さん。すいません、別れの挨拶もせずに」

窓から漏れる煌々とした光を背後にして、永野が振り返り詫びた。深く頭を垂れると鞄も一緒に揺れた。

「いや、そんなのは別にいいんだが…。その、お前の頭がおかしくなったんじゃないかと、心配した」

随分ストレートに言ってしまったと直後に後悔した。
しかし、石塚があんな状態で永野まで沈んでしまったら教室の雰囲気は毎日がお通夜である。それは避けたい。
永野が鞄を地面に置き、鼓舞するように自分の胸板を拳で軽く突いた。

「いいえ。自分はいつでも本調子です。万全です。あと、先ほどの質問ですが、大塚さんの言う通りです。自分は石塚さ…ごほん。隊長の家を出て本日から寮生活になります」
「…あー、と…そうか…」

不自然な咳は気にしない事にして、とりあえず頷いて次の言葉を探すように乱暴に頭を掻く。
このまま立ち去るという選択肢もあったが、放っておいたら入水自殺くらいやらかしそうな雰囲気の永野を見てしまうとどうにも離れがたくなる。
口下手な自身を奮い立たせ、大塚が会話を再開する。

「俺は自宅暮らしだからよくわからんが…入寮はそんなに簡単にできるもんなのか?」
「ええ。前々から考えていたことなので、手順はしっかりと踏んであります」
「へえ。流石というかなんというか…。俺も少しだけ寮生活というものに憧れている」

そうですか、と永野が返してそうなんだ、と大塚が頷くと会話は幕を閉じてしまった。
寮の手前に一本だけ設置された街灯に蛾が止まり何度も何度もぶつかる音がしてその度に夜が近づいてくる。
大塚はぼんやりと寮の窓を見上げ、永野も釣られるように自分の部屋になる窓を探した。二階の階段横の部屋。
あの部屋に自分は帰り、室内を整え、明日に備え眠るのだ。…あの人のいない部屋で。
眠りから覚めたとき隣には誰もいないという実感がまだ沸かない。自分はそのとき、寂しいと思うのだろうか。
わからない。わからないことが怖い。
そもそも、自分は、あの人がいなくても目覚めることが出来るのだろうか。
かぶりを振り思考の沼から這い上がると、いつの間にか真横に立っていた大塚に目線をやりその瞳の色を覗き込む。
…反則だ。
永野は後悔した。人工の灯火に照らされるその漆黒の瞳は『あの人』に瓜二つで―――――。

「意外とちゃんとした造りなんだな。もっとボロい建物かと思っていた」
「へっ?あ、寮がですか」

永野の葛藤とは裏腹に大塚はやけに呑気な話題を持ち出した。寮に向けていた首を永野に戻す。

「まぁ、見掛け倒しで室内は目も当てられない状況かもしれないがな。隙間風が酷かったり」
「…脅さないでくださいよ。不安になるじゃないですか」
「ははっ」

下級生をからかう先輩のような口調に、永野も心中のどろどろしたものを一旦脇に追いやった。
そして、あまり深く考えずに誘いの言葉を口にする。

「えーと、良かったら部屋を見ていきますか?」
「…いいのか?」

興味津々といった感じの大塚にどうぞ、と永野は微笑んだ。