ひまわりと飛行機雲 . 10

永野が寝苦しさに呻いている頃、石塚邸では男二人が黙々と将棋をしていた。
一人目はこの家の主、石塚弘。そして二人目はその客人の嶋丈晴。
現在は六戦目の最中であり、ここまでの石塚の成績は五戦一勝四敗という彼にしては珍しく芳しくない結果だった。
賭け試合ではなくとも、ここまで負け込めば誰であれプライドが傷つくものだろう。
しかし石塚は無感情な瞳で将棋の駒を進めている。それを嶋は実験動物を観察する科学者の姿勢で見据えていた。
嶋の中で石塚との会話のありとあらゆるパターンがはじき出される。―――そろそろ会話に持ち込むか。


「―――王手」

五回目の嶋の勝利宣言を聞いた石塚は、スイッチを入れられた機械のようにいきなり柔和な微笑みを浮かべた。
この人は自分の心情を相手に悟られないようにするにはとりあえず笑っておけばいいと思っているらしい。
クラスメイトならともかく、嶋はそんな小細工には騙されない。こちらも微笑を拵えて確信に迫る。

「むぅ…腕を上げたな君も。俺もうかうかしてられないな」
「…石塚さん、さっきも似たようなことを仰ってましたよー?しっかりして下さいよ。今日はボキが強いんじゃなく、石塚さんの気がそぞろなんですよ」

謙遜でもなんでもなく、嶋は事実を述べる。石塚が本腰を入れれば全勝することだってできるのだ。
会話を切り上げたいのか新たに駒を並べ勝負を始めようとする石塚に構わず、嶋は頭の中で順序立てた言葉を並べていく。
最初は何気無い話題から、そして緩急をつけて言葉を投げかける。石塚を憤慨させずに、しかし永野と元の鞘に納まるように説得しなくてはならない。
…自分は何故ここまでしているのだろうか。それは深く考えないようにして。

「石塚さんの意識がどっかに飛んでしまっている理由を、ボキが当ててみせましょうか?」

眼鏡を上げる仕草をして口元を不敵に歪めてことさらおどけて見せる。
クイズ形式というのは些か単純すぎたかもしれないが、このくらい自分はとぼけた性格だと思わせておけば相手も本音を漏らしやすいかもしれない。
機械達のように人間の故障部分もすぐに直せればいいのだが…いや、これは危険思考かもしれない。
どういう表情をしたらいいのかと困惑し眉根に皺を寄せている石塚を無視して、嶋は自分で用意した質問に自分で答えを出す。

「ズバリ!永野さんとの不仲でしょ?違います?」

無邪気に一番の懸念を持ち出す嶋に、なんでお前に言われなきゃいけないんだと図星であるが故の怒りを無理に押さえつけて石塚は笑む。
言葉の端々に不愉快な感情を込めて返す。

「君は…本当に不快な話題ばかり持ち出してくるな…耳に痛いよ、まったく」

やれやれと肩をすくめてみせた石塚に、嶋は石塚の作り笑いよりも更に完璧な、彫像にも似た朗らかな笑みを浮かべる。
そして、前々から用意してあったかのように滑らかに言葉を紡ぐ。

「それが石塚さんの為になるのなら、ボキは喜んで天使にも悪魔にもなりますよ」

演劇めいた、それでいて真摯な台詞に石塚が目を見張っている間に嶋は手近の盆に乗せてあった麦茶を手に取る。
口内を潤してから、嶋は会話を次の段階へ持っていく。細い糸を手繰り寄せるかのごとく、慎重に。

「ねぇ、石塚さん。永野さんとね、前に教室かどこかで石塚さんの話をしてたんですよ。優秀な隊長ですよねって」
「…それがどうしたんだい」
「まぁま、最後まで聞いて下さいよ」

近所のおばちゃんさながらに手をひらひらと振って能天気に石塚を諌める。
自分の頭を冷やすためか、石塚も麦茶を口に含んだ。手元の将棋はもはや意味の無い小道具に成り下がっていた。

「話を戻しますよ?それでですね、私生活ではどうなんですか石塚さんは?ってボキが聞いたわけですよ。
そしたら永野さんね、何て言ったと思います?いきなり眉跳ね上げて、『あの人は鬼です。鬼畜です』って。たった一言」
「…鬼と鬼畜って意味が似通ってるじゃないか。もうちょっと言いようがあるだろうに…」

思い出し笑いで喉を鳴らして喋る嶋に辟易しつつも、永野の仏頂面を思い浮かべ石塚も人間らしく微笑んだ。
それを目の端に捕らえながら、更に言葉の弾丸を浴びせかける。

「石塚さん、やっぱ愛されちゃってますよ永野さんに」
「…どうかな」
「愛されてますって」

いきなり歯切れの悪くなった相手に構わず、嶋は石塚が再び喋り出すまでひたすら待ち続けた。ひとまず、自分に出来るのはここまでだ。
一息ついてふと見上げた空には異様に煌く月が浮かび、いくら眺めていも飽きることがない。
夏の夜に一陣の涼風が吹き、風鈴を鳴らした。
そして、麦茶の中の氷が全て溶け、ガラスのコップに浮かんだ水の粒が盆を濡らした時、石塚がようやく一言を零した。

「…だったら、なんで永野はここを出て行ったんだ…」

苦しげに呟かれた言葉にはありったけの感情が込められていた。積み木が崩れていくかのように、石塚の表情が弱々しいものへと変化していく。
よし、かかった。嶋は心中だけで満足げに頷いた。

「きっと永野さんは気を使ったんですよ。いつまでも居候をしているわけにはいかないって」
「俺は邪魔だなんて言った覚えはない…!」

嶋の気休めともとれる台詞を跳ね除けて衣服の裾を握り締め、憎々しげに石塚は答える。この様子では一度も永野が邪魔などと思ったことがないのだろう。
苛立ちをどうしたらいいのかわからず歯軋りをする音が静かな夜に響いて、消えた。
嶋が小首を傾げつつ穏やかな口調で、

「言われてもない事を考えて行動しちゃうほどに永野さんは石塚さんの事を思っていた…とは考えられませんか?」
「そりゃ、考えたさ…でも、そんなのは俺の都合の良い希望的観測だ」
「その考えはあまりにもマイナス方向に振り切りすぎですよ」

ちちち、と人差し指を左右に振って相手の思考の迷路を遮断する。ある意味では目の前の人物は誰よりも臆病で、神経質で、ネガティブだ。
嶋は夕方にもう一人の人物にした忠告と似たようなものを彼にもしてやることにした。

「あのね、石塚さん。そういう疑念や不安な心境を永野さんにちゃんとお話しましたか?その上で、ちゃんと引き止めましたか?」

相手は苦虫を噛み潰すような表情で首を横に振った。喋るつもりがないのか唇を噛む様に引き結んでいる。

「やっぱり。いじけた目したりして、大した言葉もかけなかったんでしょ?駄目ですよちゃんと言わなきゃ。それで『永野!行くな!』って強引にでも自分の思いを伝えて、そこで初めて意思疎通の準備が完了するんですから」
「………」
「『あなたが嫌いだから出て行くんです』なんて言われたりしたら自分が傷つくとでも思ったんですか?もっと永野さんを信用してあげてくださいよ」
「っ……」
「それと…散々喋っておいてなんですがこれはボキの考えですから、何もかもが正解というわけではありません。間違ってる所もあると思います。ここからどう行動するかは石塚さんに任せますよ」
「………」

だんまりを決め込んだ石塚は細い目を更に細くして考え込み、言葉の一つ一つをゆっくり消化していく。
あまりにも長く感じる沈黙をごまかそうと嶋が手持ち無沙汰に将棋の駒を持つと、石塚も小さな駒をつまみ上げた。
おもむろに駒を配置しながら、石塚が風に溶け消えてしまいそうなほどに掠れた声で、

「なんでだ…?」

疑問を口にした。これは想定外だ。
嶋は訳がわからず小首を傾げて相手に続きを促した。ぱちん、ぱちんと駒を置いて気を静めてから石塚は再び口を開く。

「どうして君は…ここまで俺によくしてくれるんだ?君には何のメリットも無い筈だよ」
「…ボキ、は…ですね…」

嶋は言い淀み瞳を曇らせたが、それは石塚すら気づかないほどに一瞬の出来事だった。
次の瞬間にはいつものように多少鼻につくほどの余裕と陽気さを備えている。

「石塚さんには、いえ、隊長には四六時中万全の状態でいてもらわないと。隊長の士気が下がると授業もままなりませんからね!」
「なんだ、結局そんなことか」
「それに一人の将棋友達としても心配ですねー。今日の石塚さん、弱すぎて相手になりませんから」
「む…。それは聞き捨てならないな。見てろ、逆転してやる」

悪戯を思いついたワルガキのような年相応の石塚の笑みをちらりと見やり、付け加える。

「あと、ボキは…石塚さんには余生を、少しでも楽しく過ごして欲しいんですよ」
「余生…っておいおい。人をおじいちゃんみたいに言うなよ。確かに俺は老け顔だけどな」
「あはは。そこまで言い返せるんだったらもう大丈夫ですねー?」

ろくに手元も見ず半ば惰性で駒を進めつつ石塚の表情を伺うと、柔らかな微笑を向けられた。

「ああ…まだ完全回復とまではいかないがな。…だが、礼を言う。ありがとう」
「いえいえ。とんでもない。…ゆっくりでもいいと思いますよ。石塚さんのペースで。………さて、長居をしてしまいましたね。そろそろお暇しましょうか」

腰を浮かせて残り少なくなった麦茶を飲み干し、立ち去ろうとすると石塚がやけに愉しそうな瞳でこちらを見ていることに気づく。
なんとなく嫌な予感がして足元の将棋盤を見やる。
そこには魔法めいた鮮やかさで並べられた石塚の駒と、いつのまにか修復不可能なまでに攻め込まれていた自軍があった。
嶋は身動きも出来ず、ただただ感嘆の溜息を漏らす。
―――流石は、我等が隊長殿だ。

「言っただろ?逆転してやるって。―――王手」