ひまわりと飛行機雲 . 11

捉え所のない意識、宙に漂っているかのような浮遊感。
─夢を見ている。
意識のどこかで確かにそう感じた
否、夢というよりは…回帰、追憶?
適切な言葉が見つからず、微睡みの中浅い思考を広げる。
同時に展開されるのは、自分の過去の記憶の残像。
今となっては遠い昔のようにも感じられるそれは、彼と共に激戦の地へと身を置いていた頃の映像だった。


今では柔和な暖かみを持つ眼差しは、常に張りつめた光を湛えていて見るものを射抜く鋭さを持っていた。
自分はそれを、遠くから見ていた。
何もすることなく。ただ見慣れた後ろ姿を見詰めていた。
ふと、石塚が自分を横目で見つける。手持ちぶさたな自分に石塚は硬い表情で近付いてきた。
怒られる、と思った。
確証があったわけではないが、身体が震えているのが分かった。
叱られることが恐くて怯えているのか、そうでないなら何故震えているのか。分からない。
しかし彼の言葉は思いもよらない、恐いほど穏やかなものだった。

「…何を見ているんだい?」

音だけが、動きと反して遅れて聞こえる。
そこまで来てようやく少し理解した。
これは自分が抱いていた石塚の理想像─
…いや、違う。昔の石塚はこうであったという記憶に基づいた偶像だ。

あの人は変わってしまった。
自分だけが過去の遺物に取り付いたまま置き去りにされていく。
人の足は歩くためについているのに、今や自分の足はその丈の分の目線を保つためだけの支えの役割しか果たさない。
…なにも変わらない。心の底では変わることなくここまで来てしまった。
臆病な自分も、素直になれない態度も、石塚さんへの憧れも、何も…



目を覚ませば気温は既に高く、肌はじっとりと汗ばんでいた。
首を巡らし右側を見る。距離感を感じさせない白い壁が映り込むだけだった。
時刻は6時。今までより多少早めに家を出なければならないものの、まだ随分早いと言える。
それにしても不快だ…肌に張り付くシャツがとにかく気持ち悪い。さっさとシャワーでも浴びたいところだ。

身体にまとわりつくような熱を孕んだ空気を一掃したい衝動に駆られ、床に降り立った永野は窓を全開にして遠い空を仰いだ。
この方角からは少ない建物の隙間から僅かに海が見える。
今日も暑いには暑いのだが、普段の朝方と比べれば多少は涼しい。
吹き抜けた風が両サイドのカーテンの裾を静かにそよがす。
部屋に籠もった空気と一緒にこのどうしようもない不快な気分も一掃してくれれば良いのに。
一瞬だけ考えた願望のあまりのくだらなさ加減に少しだけ自嘲した永野は深く息を吐いた。




晴天に点々と浮かぶ雲が目に止まった。
緩やかな風に流され、立ち止まることなく軌跡も残さない。
そんな生き方が出来れば、どれだけ良いことか。
しかし、理想は所詮理想でしかないのだ。不器用な自分には一生掛かってもできそうにない。
小さく息を吐いた途端に眉間に何かが当たった。

「─…いっ」
「なーがーのー…」
「…せ、先生?」
「もうじき昼だからって余所見するんじゃない!」
「す、すみません!!」

反射的に立ち上がるとクラス中からくすくすと笑い声が上がる。
永野はさっと頬を染めると憮然とした表情で席に座り直した。
ふとした瞬間に空席が目に止まり、俯いて顔を隠すように机を見詰める。
昨日の午後に続いて今日の午前中も石塚が姿を現すことはなかった。



「珍しいな、お前が男先生に注意されるなんて」
「…ちょっと気が散漫だったみたいです」

既にクラスメイトの大半は昼食を摂りに教室を後にした。
座ったまま生気のない顔をしている永野を見た大塚が、堪えかねたように話しかける。
恐らくは笑おうとしたのだろう。
しかし、確かに笑っているのにふとしたら泣きそうで、不安そうな中途半端な表情を向けられた大塚は言葉に詰まった。

「…大塚さん?」
「石塚。来なかったな」
「……ええ」

辛うじてそれだけを返した永野だったが、内心酷く混乱していた。
石塚の姿が見えないのがとても不安で、それなのに何故か安堵している自分。
どうしてだろう。
いつもそうだ。自分は自分のことさえ分からないのに、あの人はそれすらも見通しているような素振りで笑ってみせるから。
…だから、恐かった。

「─…石塚さんが?」

自分で思考した問いと答えに驚愕して、思わず声に出す。
深々と息を吐き頭を振る。…忘れよう、今日はちゃんと石塚さんに会って話すことが先決だ。

「…どうした?」
「何でもないんです。気に、しないでください」
「…そうか」

不満そうに言う大塚だったが、問い詰めることもなくそのまま押し黙った。
遠い喧噪が思考停止した頭を現実に引き戻す。

「…昼飯、食べに行かないんですか?」
「あぁ…そうだな。お前もどうだ?」
「すみません。ちょっと用事を思い出したんで…」

そう言って慌てて立ち上がった永野が、教室の入り口まで駆けて行ったところで何かを思い出したように振り返った。

「大塚さん…その、昨日はありがとうございました」
「…何のことだ?」
「昨日、校門でぶつかったときに助けてくれて…」
「いや、あの時は俺も悪かったから…」

今更ですけど、ちゃんと言っておきたかったんです。と言ってはにかんだように笑う永野。
その姿が引き戸の向こうへ消えるまで、大塚は呆気に取られたまま呆然と何もない空間を見詰めていた。
空腹で我に返り、ゆっくりと息と吐く。
─本当は分かっているのだ。自分が下手に立ち回った所為であの二人の仲が拗れてきたことくらい。
しかしこんなに厄介な事態になっているそもそもの原因はというと、石塚の一方的な嫉妬心と思い込みなのだ。
…もし、このまま永野との親睦を深めて行ったら、どうなるだろうか?
何故そこまで永野を気に掛けるのか。自分にとっての永野は─

今度は腹の音で思考が阻害される。
仕方なく大塚は食堂へ向かうことにした。永野がこの場を去ってから既に15分は経過していた。
永野が去り際に見せた笑顔の残像が、脳裏から離れずにしつこく付きまとっていた。