ひまわりと飛行機雲 . 12

身じろぎする度にきしきしと耳障りな音を立てるパイプ椅子に座り、石塚は書類の山に埋もれていた。
その中には教科書やノート、書き溜めたメモ等も混ざっている。
雑多に紙が積まれた卓上でどのような作業を行っていたのか、石塚にもわからない有様になっていた。
力尽きたかのように紙の洪水の中へゆっくりと頭を沈め、自嘲気味に笑う。
「どうしてもこなさなければいけない仕事がある」と大義名分を掲げ教師を騙し、石塚はこの誰も居ない会議室に休み時間はおろか授業中も篭っていた。

「先生には悪い事をしたな…」

呟く声には覇気が無い。眉根を寄せて気難しげな表情を作っている。
母親が迎えに来るのを待つ子供のように、石塚は永野を待ちわびていた。
来る保障なんて無い。寧ろ来ない確立の方がよっぽど高い事なんて百も承知だった。
ノックの音がして、ドアノブが回って、扉が開いて、「石塚さん、居ますか?」と永野が出てきたらいいのに。
そうしたら、素直に笑って話が出来るかもしれない。
嶋の話を聞いて考えを改めたものの、どうにも踏ん切りがつかなくて実行に移せないまま時間だけが過ぎていくのを嫌と言うほど感じている。
時計の秒針の音がやけに響いて、いつまでも動き出さない自分を責めているように感じる。

「時は金なり、だな」

意味の無い言葉ばかりが溢れて来る。こんな状態で幻獣が現れたとして、自分はまともに戦えるのだろうかと自問する。
隊長という立場上、失敗は許されない。油断や不安は命取りになる。
自分だけならまだしも、隊員を死なせてしまった日には何をしても取り返しがつかない。
そう、何をしても。

過去の戦場風景が思考の奥深くから溢れ出し、石塚の頭を過ぎっていく。
目の前で虫けらのように殺されていく仲間。それでも戦い続けた自分。
仲間を死なせてしまった事実の謝罪に向かった先々で見た絶望に歪む遺族の表情。父島へ戻る船。
そして、生き残ってくれた永野。死神とまで呼ばれた自分を、それでも慕って本島から呼び戻そうとしてくれた。
…手放す訳にはいかないのだ。もう、何も取り零したくない。

大きく頭を振って後悔に塗れた思考を振り払う。
反省は幾度となくしてきた。今更、過去を振り返っても心は荒むだけで進展もしなければ未来が開く訳でもない。
今を大事に、動かなければならないのだが…。

「……………くそ」

立ち上がろうとした足が動かない。
マイナス方向にしか物事を考えられず、気持ちが完全に負に侵食されてしまっている。
自分はとんだ意気地なしだ、と石塚はまた書類の山に埋もれていった。
開けっぱなしにしていた窓から微かに潮の匂いを乗せた風が流れ込んできて、机の端に寄せていた数枚の紙が舞い上がる。
軽やかに空を舞ってそのまま落ちていく紙を見ていた石塚は、それとなく戦いの気配を感じていた。

(そろそろ、幻獣が現れそうだな…こっちは学生生活だけでも手一杯なのに…)

隊長という立場にありながら、なお自己中心的な思考に身勝手な溜息を漏らした。





真夏の父島に一陣の涼風が吹いた。島の人々を癒すかのようなその風は教室にも吹き渡ってゆく。
授業中の雰囲気が弛緩して、板書をしていた教師もふとその手を休め気持ち良さげに目を細める。
大人しく授業を受けていた大塚も風の吹いてきた窓を見やって、微かに微笑んだ。良い風だ。
形を持たない風はすぐに夏の蒸し暑い空気に様変わりし、我に返り授業を再開しようとした都綾子がふと時計を見上げ、少し考えてから生徒に告げる。

「…チャイムまであと三分くらいあるけど、休み時間にしましょう」
「よっしゃ!」
「都先生ありがとー!」

たった三分程度の違いのだが、思いかけず早く終わった授業に生徒が歓声を上げた。チャイムが鳴れば昼休みなだけに嬉しさも倍増なのだろう。
教室の空気が一気に砕けたものになり、昼休みに何を食べるかの相談があちこちから聞こえてくる。
それを微笑んで見つめたあと、都は教室からそっと出て行った。その後姿をなんとなく見送ってから大塚は永野に視線を移し、苦笑する。
最前列の右から二番目に座っている永野は、教室の空気を完全に無視してまだ教科書を開いたままで手には鉛筆を握っていた。
復習でもしているのだろうと結論した大塚は、しかし永野の持つ鉛筆がまったく動いていないことに気づく。教科書を見ている目もどこか虚ろだ。
その表情とは対照的な、少し前に永野から向けられた笑顔を思い出す。あの顔をされては石塚が手元に置きたがる気持ちもわかる。
深入りしすぎてはいけないという自戒も忘れ、大塚は席を立ち永野に近寄った。永野の不安を少しでも拭えればいいと。
やっぱり自分と石塚は少なからず似ている部分があるのだろう。同じ人に惹かれるのだから、と思いながら。