ひまわりと飛行機雲 . 13

昨日はとても長い一日だった。
夜も普段の就寝時間より遙かに早く寝入ったというのに、まだ疲れが残っているのか所々身体の動きが鈍い。
しかも昨日のキャッチボールが祟ったのか、僅かに身動ぎした瞬間右肩が軋み永野はしかめっ面を更に歪めた。
いつから自分はこんなに柔になってしまったのだろう。
石塚さんとは昨日の午後に食堂で鉢合わせてから顔すら見ていない事になる。
既に一日が経とうと言うのにあの人は一向に姿を現さない。
まさか、ずっと拗ねているのだろうか。
いくら鈍感な自分でもここまであからさまだと気付かざるを得ないというものだ。
石塚さんは嫉妬している。自分か、大塚か、将亦両方に。
しかし自分はいつも石塚さんにしか構っていない訳ではない。
仲間との折り合いもあるし、最低限人付き合いをする上で親交を深めたりもする。
しかも大塚は家に上げたとはいえまだ互いにぎこちなさが残る関係だというのに。
どうしてたった一言二言会話しただけでこんな面倒な事にまで発展したのだろう。

「ちょっと、辛気くさい顔してないでしっかりしなさいよ」
「…田上」

不意に机から顔を上げてみれば、田上が不機嫌に腕組みをして自分を見下ろしていた。
その高圧的な態度が癪でにらみ返してやる。少しだけ間が空いた。

「あんたの所為なんでしょう?」
「なにが?」
「…惚けないで」
「だから、なんの事だ」
「分かっててやってるんだったら、ぶつわよ?」

やはりこの状態で白を切るのは無理があるか。密かに永野は溜息を吐いた。
雰囲気でそれとなく分かる。石塚さんが教室に顔を出さない訳を聞きたいのだ。
昨日からずっと教室内はまるで禁句とでも言いたいのか、石塚の名を言うことすら躊躇われるような状態で。
しかも誰もが大元の原因が永野にあると見て探りを入れるような視線を向けてくる。それは田上も同様だった。

「…クラス中、委員長とあんたのことで持ちきりなんだから」
「だから?」
「このままで良いわけ無いじゃない!なんとかしなさいよ!…元はと言えばあんたが蒔いた種なんでしょう!?」
「…だから、僕にどうしろというんだ!」

熱くなって怒鳴ると、不意に田上が口を噤んだ。はっとして口に手を当てる。
眼鏡の奥で僅かに目が潤んでいるのが分かった。

「…悪い。言い過ぎた」
「馬鹿!」

そのまま顔を背けて教室を出て行く田上を呆然と見ていた永野は、ふと視線の延長線上に人がいることに気付く。
ずっと今のを見ていたのだろうか。だとしたら恥ずかしいところを見られたな、と思った。
永野の視線の気づき、少し躊躇いがちにその人は近付いてきた。
咄嗟に笑みを浮かべて取り繕う。しかし気遣いなのか、何もなかったかのようにその人は話しかけてきた。

「永野、飯に行かないか?」
「大塚さん…今の見てたでしょう?何も言わないんですね」
「…仕方がないだろう」

それだけを言って大塚は黙り込んだ。
考え事をしているのだろうか。様々な意図が綯い交ぜになった眼からは感情を汲み取ることが出来ない。
机の上に広げられたままのノートが風に煽られ捲られていくのを眺めながら、永野は考えた。
このままでは何も解決しないと、田上は自分に伝えたかったのだろうか。
必要なのは、踏み入る勇気とその決断。しかし、自分はそれらが決定的に欠けている。
いつも石塚さんの言動が、行動が理解できず当惑し迷ってきた。
その結果だろうか。自分は石塚さんのこととなると、慎重すぎるほど酷く臆病になってしまうのを感じていた。

「…俺がいるだろう?」

不意に口を利いた大塚から不思議な言葉が漏れた。
じっと永野を見据える目は決意とも見て取れる力強さが感じられる。
永野が言葉を待っていると、大塚は重たげに口を開いた。

「どうしても石塚なのか?」
「大塚さん…?」

半歩距離を縮めた大塚が永野の机に手をついた。
不思議そうに見上げる永野から一度視線を外し、すぐに向き直る。

「永野、俺は─…」
「ちょっとすみませんねーお邪魔します」
「し、嶋さん…どうしたんです?」

普段の気の抜けた表情のまま強引に割り込んで来た嶋に一瞬呆気に取られた大塚だったが、直ぐに表情を不機嫌なものへと変えた。
それを横目で見ながら嶋は笑みを浮かべる。対永野にはこれが一番効果的だと統計的に分析した結果だった。

「女の子を泣かせたでしょう?…駄目ですねぇ永野さんは」
「…す、すみません。そんなつもりは」
「彼女から伝言ですよ。『自分も少し言い過ぎた。でもこの問題は貴方にしか解決できないことだから』…ってね。良いこと言いますねぇ」
「……」
「ボキもね、そう思いますよ」

未だ状況が掴めず動揺する永野を観察しながら、嶋は意図的に口元を緩めた。
永野の隣で手持ち無沙汰に腕を組んでいる大塚の視線を感じ、僅かに笑い声が漏れる。

「でも石塚さんは何処に…」
「会議室で悶々としてますよ。これは誰かさんのお迎えが必要ですね」
「しかし、自分は…」
「大丈夫ですよ」

何が大丈夫なのか、永野の疑問は言葉にならず。
代わりに嶋がエスコートするように道を譲り、「お待ちかねですよ」と教室の扉に手の平を向けた。
気付けを施されたかのようにはっと顔を上げた永野が、大塚に一言謝って教室から姿を消すまでの間、大塚はずっと黙っていた。
座った目に引き結んだ口元からは威圧感を覚えるが、嶋はそれを無かったかのように受け流す。
視線を向けて首を傾げる動作をすると、小さな溜息が漏れた。

「…あの伝言、本当に田上がそう言ったのか?」
「さあ、どう思います?」

睨み付けてくる大塚から言いようのない思いを感じ、嶋は困ったように肩をすくめた。
教室には誰も居ない。珍しい取り合わせの二人が向かい合ったまま黙り込んでいるのは、端から見ればとても不思議に思えるだろう。

「…どちらでも構わない。ただ、俺の邪魔をするな」
「大塚さんは石塚さんが憎いですか?」

扉へ向かっていた大塚を呼び止めるように、嶋は低い声ではっきりと発音した。
唐突な質問に動揺が過ぎる一瞬を嶋は見逃さず、ただ大塚の返答を待った。

「…馬鹿馬鹿しい。俺はいつだってあいつにそんな感情を抱いた覚えはない」
「そうですか。安心しました」

懐疑の目を向けながらも大塚は教室から出て行った。
それを見届けた嶋は一仕事終えたような満足げな顔で足下に現れたシマシマに手を振ってみせる。
シマシマはすぐに走り去って見えなくなった。

「もう少し、ですかねぇ…」