涼やかなチャイムの音と共に「起立!礼!」と凛々しい号令が永野の唇から発せられる。
それと同時に夏の熱気にも負けない生徒達の賑やかな話し声が教室内に充満した。
四時間目の終了、同時に昼休みの開始を告げる先ほどのチャイムの余韻も消えぬうちにこの有様である。
まったく賑やかな学校だと呆れつつもどこか朗らかな顔をした永野が立ち上がり、黒板消しを手に取った。今日は日直だ。
「よぉっし、いっくぞー!じゃーんけーん…!」
…珍しい。いつもなら狭い食堂へ一目散に消えてゆくクラスメイト達が教室の後ろの方で何か話し合っている。
ちなみに威勢のいい掛け声は松尾のものだった。
特に誘われもしなかったのでそのまま黒板一面に書かれた数学の公式を淡々と消していく。
「おぉっし!大塚の負っけー!大塚に決定!!」
「張り切って行って来い大塚!」
「今日のイケニエは大塚くーん!」
「ははは、いい報告を待っているよ大塚!!」
まだなにやら騒いでいる生徒達の声を聞きつつ、永野は最後の公式を消し終えた。
窓の外に腕を出して黒板消し同士を打ち合わせ粉を落としてから、自分の紺色のブレザーについた粉を煩わしげにはたいて落としていると、突然に背中へ衝撃が走った。
「いっ!」
「…すまん。力の加減を間違えた」
ぶっきらぼうな声に振り向くと気遣わしげに眉根を寄せた大塚が立っていた。永野をはたいた手をすまなさそうに空中に彷徨わせている。
元気付けるように軽く永野が微笑む。
「いえいえ。背中についた粉でもはらおうとしてくれたんでしょう?むしろお礼を言わなきゃいけないくらいですよ」
律儀に頭を下げる永野に大塚が決まり悪そうに頭を掻く。煮え切らない大塚の様子に、永野が続きを促す。
「他にも何か?」
「…いや…俺としてはどうでもいいんだが…その…」
大塚が恨みがましい目を向けた先には松尾をはじめとしたクラスのお調子者達が集まっていた。
早くしろと言わんばかりに手を振り上げて何かを催促している。中には拳を握って天に掲げ、大塚を応援している者もいる。
書き忘れていた日直名を書こうとチョークを手にして、疑問を投げかける。
「何ですかあれは?宿題でも見せて欲しいんでしょうか。それなら自分に直接交渉しに来ればいいものを」
「…宿題じゃない」
「じゃあ…?」
うー、あー、と口の中でもごもご呟いたり窓の外に続く空を見上げていたりしたが、決意したように永野の方へ黒い瞳を向ける。
黒曜石のような深い輝きはちょっと石塚さんの瞳に似ているなと永野は無意識に思った。
「あのな、俺としては本当にどうでもいいんだが…」
「はい」
「石塚は、どうしたんだ?」
パキン。永野の指からチョークが滑り落ち、真っ二つに割れた。
「いや、なんだか背中から瘴気というかなんというか…何か禍々しいものが出てたんで…皆が心配している。というか、好奇心旺盛になっている」
「ああ…なるほど…」
頷いてまた後ろを振り返ると確かに好奇心に満ち満ちたクラスメイト達の視線が永野の返答を持った大塚の帰還を待っている。
石塚さんとの事は、今、考えたくない。逃げだとわかっていても、それが永野の正直な心理状態だった。
中身が全て鉛になったかのようにいきなり重くなった体を動かして、永野は二つに割れたチョークを拾い上げる。
他のチョークに持ち替え、今度こそと「永野」の「永」を黒板に叩きつけるように書いた。次は「野」だ。
「何で自分に聞くんですか?石塚さん本人に聞けばいいでしょう」
「今の石塚は話が出来るような状態じゃない」
「まあ…そうですかね」
「だがお前は石塚の保護者みたいなもんで、あいつの事なら聞けば何でも知っていると松尾達が言っていた」
バキン。永野の指の中でチョークが破裂するように砕け散った。
「お、おい。大丈夫か」
「全然大丈夫です。余裕です」
備え付けの粗末な棚からチョークを詰め込んだ紙の箱を取り出して損失した分のチョークを補充する永野。目が死んでいると大塚が二、三歩後ずさる。
視線を宙にやって、散々言葉を選んでから、大塚は永野へ真摯な目を向けた。
「石塚が何かお前を困らせているなら相談に乗ろう」
「へ?そんな。関係ない大塚さんを巻き込むわけには」
唐突な申し出の後、大塚はさらりと事実を告げた。
「関係はある。あいつと俺は従兄弟なんだ」
「はぁ!?」
そこまで驚くほどではないだろうに、と大塚が至極真っ当な意見を返す中、永野の手中からは箱ごとチョークが地面へと向かっていった…。