ひまわりと飛行機雲 . 16

辺鄙な山奥にあるその家は、永野が出て行った時と寸分違わぬ姿のままだった。
開け放された縁側の窓からはささやかな明かりが漏れ、扇風機の回る微かな音が聞こえてくる。
それらの懐かしい光景に釣られるようにふらふらとその家に近寄ると、質素な居間で持ち帰りの書類を片付けていた石塚がふと顔を上げた。
凪いだ水面のような穏やかな瞳を持つこの家の主は永野の存在に気付くと、まるで何事も自分達の間には起きていなかったというような顔をして言う。

「お帰り、永野」
「は、はい。只今、戻りました…」
「うん」

それだけの素っ気無い会話を交わすと石塚はまた書類に目を落とし、眉間に皺を寄せ考え込んでからまたペンを走らせる作業の繰り返しに没頭し始めた。
釈然としない。もっと、何か、こう、話すべきことがあったはずだと永野は立ったままで考え込む。
そして、自惚れていた事に気付く。
嬉し涙を流す石塚というのは想像し難いが、姿を見せた永野に笑顔くらいは向けてくれると思っていたのだ。
ましてや二人でゆっくりと語らう時間は久しぶりである。
感動の再会とまではいわずとも、もう少し喜んでくれてもいいんじゃないだろうか…。
取り残されたような気分で縋るように石塚が走らせているペンと、それを握る右手に視線を移した時、永野は小さく声を漏らした。
永野の怪我とは反対側、右手の指に無造作に巻かれていたものは絆創膏。
心の中のわだかまりも何もかも忘れて永野は縁側に飛び入り衛生兵よろしく石塚の手をひったくるように掴んだ。

「こっ、この指はどうしたんですか石塚さん…?」

そこまで大騒ぎする程じゃないと軽く返されたが、石塚の傷は絆創膏程度で片付けていいものでは無かった。
相当深く切ったのか、絆創膏のガーゼ部分はいっそ見惚れるほどに鮮やかな赤に染まり淵からは血が漏れ出そうとしている。
永野は戦場から帰還してすぐに保健室へ直行したため、石塚はいつも通り殆ど無傷で涼しい顔をしているとばかり思い込んでいたのだ。

「何で『しまった』みたいな顔してるんだ…永野がつけた傷じゃないだろう」

言葉を返そうとふと顔を上げた永野は、石塚の瞳がどこか不安そうに揺れているのに気付く。
縁側の外に居た時は平然として見えたが、それは感情を押し殺した末のものだったのだろうか。
永野は石塚の心情を汲み取ろうと必死に考えたが、人間関係の経験が少ない永野にとってそれは至難の業である。
されるがままになっていた石塚がやんわりと永野の手を解き、そこで永野は我に返った。
打たれたかのようにかっと目を開き、救急箱に手を伸ばす永野とは正反対の落ち着いた口調で石塚は永野を制す。

「ああ、いいよそんなに焦らなくて。戦場でついた傷じゃないから」
「いいから手を出して下さい!一旦絆創膏を剥がしますよ…って、じゃあ何処でこんな傷を拵えて来たんですか」

若干拍子抜けしつつも、何処で作った傷であれ怪我の深度は変わらないので永野はそのまま手際よく消毒液を吹き付け治療を進める。
よく傷口を観察すると、鋭利な刃物で切った傷のように見えた。

「夕飯を作る時に、包丁で切ってしまっただけだよ。ただの不注意だ」
「また随分と豪快な不注意ですね。まったく…自分にばかり家事を押し付けているからです」
「はは、その通りかもしれない。思わぬ所で天罰を食らったよ」
「神仏のせいにしないで下さい」

永野が嗜め、石塚が軽く微笑む。
それだけで二人の時間が、永野が出て行く前までの二人の空気が戻ってきていた。
器用に包帯を巻きながら、永野はやっと帰って来たのだと頬を緩める。



その笑みをそっと盗み見た石塚は決心したかのように、確認しておきたかった質問を切り出す。
今更、聞くほどの事ではないと知りつつも。

「永野、下宿先が全壊したと聞いたが…本当か?」
「…ええ。どうやらそうみたいです」
「じゃあ、帰って来るんだな」

永野は無言だったが、力強く頷いた。
そうか、と石塚も素っ気無く返し、居心地の悪い沈黙が流れる前に二言目を発する。

「ずっと言いたかったんだが永野」
「な、何でしょう」
「土足」
「なっ?…あああっ!」

一生の不覚と言わんばかりの悲鳴を上げると、永野は靴を慌てて脱ぎ、神速で縁側に戻した。
家の間取りまでは忘れていなかったらしくどこからか雑巾を持ってくると畳が剥がれそうな勢いで足跡を拭いてゆく。

「ベタなことやるなあ…」
「…返す言葉もないですよ」

真剣そのものの表情で床とにらめっこしている永野の背中を机に頬杖をついて見守る。
本当はこのまま、うやむやにしてもいいと思っていたもう一つの質問がある。
返答次第によっては心を粉々にされるであろう質問が。
それでも、どうしても聞いておきたい。恐れているだけでは、不安はいつまでもつきまとう。
大丈夫だと自分に言い聞かせる。永野はきっと、石塚の欲している答えをくれる。

「永野、僕の事を、どう思ってる?」
「…い、石塚さんの事を、ですか………う、ううん…」
「答えられない?じゃああいつ…大塚のことは?」
「頼りになる学友、だと思っていますけど…何なんですか、いきなり」
「ん、いや、何でもない」

頼りになる学友と、言語化不可能の思い。どちらが思われているかなんて考えなくてもわかる。
自分はなんて器が小さい男だと苦笑しつつも、満足している自分が居る。
自己嫌悪に区切りをつけて永野を手伝うため腰を上げようとして、失敗した。

「…どう、したんだ。永野」

動揺を悟られまいとして出したのは低い声。
何故かはまったくわからないが永野が腰を掴むように、不器用に抱きついていた。
混乱で固まる石塚の耳朶を上擦った声が打つ。

「先程の問いに、言葉で答えられなかったので、態度で示したまでです。要は、伝わればいいと嶋さんに教わりました」
「嶋、か…」

永野を軽く抱きしめ返し、ふと嶋と将棋をしたあの夜を思い出した。
石塚もあの嶋のお説教が無ければ、先程の質問はできなかっただろう。
永野と二人でお礼にでも出向かなきゃならないなと苦笑して、今は行動を起こしてくれた永野に感謝しようと石塚は精一杯の力で抱きしめた。
どう接したらいいのかわからず、曖昧にかけてしまった言葉の言い直しには絶好の機会。
万感の思いを籠めて、石塚は耳元で囁く。

「改めて。おかえり、永野」
「はい。ただいま、戻りました…」