ひまわりと飛行機雲 . 15

身体が深く沈んでいく感覚。
思い出したように左手が焼けつくように熱く、痛んだ。
大したことのない怪我だと分かっていても痛みだけは誤魔化しようがない。
無傷の右手でシーツを手繰ると、堪えるように強く握り締める。
先程手当を施してくれた女先生は用事があると言ってどこかへ行ってしまった。それきり戻ってくる様子もない。
それほど大きいとは言えない保健室も、一人で居るには広すぎる。
外の景色は見えなかったが、恐らく日が傾きかけていることだろう。
横になっている所為か今まで押さえてきた疲労感が押し寄せ、ついぞ感じたことのない心地よさに思わず目を閉じた。


久々の戦闘だった。
聞き慣れたはずのアナウンスを聞いた時、一瞬だけ身体が震えた気がした。

(…落ち着け、何のためにここに居るんだ。そうだ、何の為に…)

戦闘なんてそれこそ願ったりじゃないか。平和ボケして鈍った身体には丁度いい。。
しかし、この狙ったような間の悪さに永野は悔いを持たずには居られなかった。
もっと自分が早く決心をつけていれば、もしくは出動がもっと遅ければ…。
後悔は積もっても何も為さない。
そうと知っているのに気を苛んで止まないそれを止めることが出来なかった。

床に視線を落としたまま僅かに顔を顰める永野をじっと見ていた石塚だったが、不意に立ち上がると永野に歩み寄る。
それに気付いて顔を上げる永野。
視線の先にはどことなく生き生きとした、子供が遊びに行きたくて堪らない衝動を抑えているような。そんな目をした石塚が薄く笑みを浮かべていた。

「石塚さん…?」
「行こう」

思えば、その一言だけで十分だった。
意思の疎通とかいう問題ではない。
とん、と軽く背中を押されるような。そんな感覚に近い。
それは合図だった。
すれ違い様、軽く肩にかけられた手の平の感触で我に返った永野はかぶりを振ると意識して息を吸いこむ。
そうだ、行かなくては。
早々に駆け去った石塚の姿はもう見えない。
永野は盆の上のコップの中身を一息に煽ると、一呼吸の間を置いて駆け足で部屋を後にした。

今までが順調に行きすぎていたのかもしれない。そう思ったこともあった。
都合の良いように話が進み、都合の良いように完結する。
しかし、都合とは誰の都合だろう?

戦果は上々だった。
久々の戦闘とあって多少気の抜けた雰囲気ではあったものの、今までのように何事もなく切り抜けられた。
自分と言えばちょっとした不注意で手創を負ってしまったものの、今後の行動に支障が出るほどでもないしこれだけで済んだと思えば幸いと言える。
ただ一つ誤算があったとすれば、戦域がやけに市街地に近かったことと。その範囲内に先日自分が越してきたばかりの寮が含まれていたことか。
父島の放棄。
不慮の出来事によって泥沼化していた石塚さんの不機嫌。
絶妙なタイミングでの出撃。
そこまでが良いとしよう。しかし…
永野は知らず溜息を吐いた。

「…遂に家まで無くなるとは……」

敵か、将亦味方の攻撃によるものなのか。良く覚えていない。
とにかく人が住めるような状態でなくなるところを目の当たりにしたのだから間違いない。
その時はあまりの出来事に目眩がしたが、なくなってしまったものは仕方がないと、すっぱり割り切ることができたのは今までの自分と比べると相当進歩したと言える。
まあ、それが果たして「進歩」といえるかどうかは不明だが、少なくともそうすることで精神的負担は大いに軽減されるのだ。
しかし、住まいがなくなってしまったという事実だけは目を背けたところでどうにもならない。
それでも不思議と不安や焦りといったものを感じなかった。
…それもそうだ。また石塚さんのところで世話になればいいと言う手段が残っている。

「その前に、仲直りしないと…」

一世一代の決心で臨んだというのに、何も言うことが出来なかった。
はやく元通りにしたい。ずっとそれだけを考えていた。

「…元通り?」

口に出してみて、ようやく気付く。
呆れとも自嘲ともつかぬ笑い声が漏れた。
身体を起こして伸びをする。気怠い身体に反して心はやけに晴れやかだった。

簡単なことだったんだ。
なんで今まで気付かなかったんだろう。
自分があの家に戻れば全て元通りじゃないか。
最初から欠けていたのはそれだけだった。それが欠けたからおかしくなってきた。
言い聞かせるように心内で唱える。
自分が納得できる理由が見つかったのだから、詭弁だということはこの際目を瞑ろうと思った。

「…後は石塚さんへの言い訳を考えないとな」

仲直りしないといけないとはいえ、こっちから謝る気なんてさらさら無い。
逆に自分から頼み込むような形になってしまっては、形勢逆転と見られてあやふやにされてしまう可能性も否めなかった。
今回ばかりは、きっちり決着をつけてもらわないといけない。

「頑張れ、英太郎…大丈夫だ。大丈夫。石塚さんも僕が居ないことの有り難みが少しは身に染みたに違いない」

必要とされているから、あそこに居ることを許されていた。
だからきっとあの人には自分がいないと駄目なんだ。
勢いよく立ち上がると、乱れたままのシーツを直すことも忘れて玄関を抜け外へ出た。
傷が包帯の内で未だ燻るように痛みを訴えるが、気に留めているほどの余裕もなかった。
外に出た途端に吹き付ける緩い風。空を仰げば既に夕闇が立ち込めている。

「さて、」

帰るか。
二言目を口にする前に永野は全速で駆けだしていた。