隊長日和 . 10

真っ暗だ。何も見えない。
この部屋はいつもこんなに暗かっただろうか。…いや、でも見えない方が良いか。
それにしても、ここまで真っ暗で何も見えないと逆に五感が研ぎ澄まされてくる。
だから…尚更気にしてしまう。感覚が強くなる。
探るように動く手、聞き慣れてしまった息づかいはやけに浅く明らかに普段のものとは違う。
…だめだ。意識と体を引き離せ。でないと…
思わず漏れそうになった呻きを手で口を覆うことによって押さえ付ける。
それを見て石塚は声を殺して笑った。ああ、この人は大変な悪趣味だ。唇を噛みながら永野は瞼を強く閉じた。

体の熱に浮かされ、翻弄されながらも永野は雑念を振り払えずにいた。
いつもならとっくにお互い理性なんてない。
…特にここ数日は抵抗することの無意味を散々味わってきた所為か、初日のように過度な拒絶をするでもなく
自分の意志とは無関係に、ただされるがままの行為を続けてきた。
幾度か反撃を試みたものの、この人はそれすらも楽しんでいるようで自分から仕掛けておいて最終的に流されてしまうのも自分だった。
そしていつの間にか日が昇り目を覚ますと、隣で熟睡しているこの人を横目で睨みながら痛む腰を持ち上げ朝食の支度を始める。
そんな日常が続いていた矢先。
今日のことはそう言う意味ではこの関係の転機だったのかもしれない。

何だかんだ言っても、結局はお互い他人同士。
どうせ隠すことなど出来ないのだからと半ば開き直っていた自分はいつだって本音を漏らしてきた。
それこそ、小言小言でこの人もそこにうんざりしていたのだろうが、言葉を繕って接するよりは遙かに相手に誠意を持って接していた。
なのにこの人ときたらどうか。自分の本心をさらけ出す気なんてさらさらない。
その上勝手に人の心内を読み解いては見透かしたようなことを言って俺をからかって遊んでいるだけなのだ。
口上では俺を籠絡しておいて、ただ弄んでいるだけなのではないのかと。
そこに愛を感じるかと言われれば、正直分からなかった。
でもせめて、期待には応えようと。機嫌だけを損ねることはないようにと。どうか、嫌いにはならないで欲しいと。
…だから、不安でどうしようもなかったのも事実だった。

不意に重ねられた手に、唇。
まただ。また─目眩がする。未だこの感覚には慣れない。きっとこの先それに溺れる事はあっても慣れることはないだろう。
時間は分からないが多分とっくに明日になっている頃だ。本当に今日のところは寝かせてくれなさそうだ。
…どうせ無線待機とかで一日中縁側に座って隠居生活を満喫しているような人だから、多少体が気怠くても支障はないのだろうけど。
そんなことはともかく問題なのは自分だ。
理性と意識が限界に近かった永野は一度正面の石塚の頭を抱え込むと小さく声を漏らす。
抱き返してくる腕が酷く優しい。今までの半分強姦のような行為とは嘘のようだった。
自分が与え、求めれば、この人もそれに応えてくれる。それに甘えてしまいそうになる自分が妙に気恥ずかしい。
下肢に伝う感覚に頭が痺れる。明日…足腰が立てばよほど自分は運に恵まれていると確信できる。

そして朦朧とする意識の片隅で、確かに俺はそれを聞いた。
「愛している」と。
幾度となく聞いた言葉が妙に新鮮味を帯びて脳裏に浮かび上がっては消える。
何度も反芻するうちに胸から熱いものが込み上げるような感を覚え、それと同時に固く閉じられたままの目から一筋の雫が伝った。
ああ、きっとこれだったんだな。この人が本当に俺に求めていたのは─…



「おーい」
「……あと10分」
「…あと10秒。のち、襲う」

そう呟いて2秒とばしのカウントを始める石塚。
永野は怯えたように身を固くすると瞬時に布団から飛び起きた。瞬間体中に思いがけなく鈍痛が走り再び布団に沈む。
顔では笑っているものの、小さく聞こえた舌打ちにさらに枕に埋めたままの顔を青ざめさせる永野。

「…おはようございます。お早いですね」
「お前が遅いんだ、永野。もう朝食は用意しているからさっさと食べて片付けさせてくれ。今日は俺がお前の仕事を負担する」

誰の所為だと思ってるんだと、涙目で睨む永野に石塚はさわやかな笑い声を残し部屋を後にした。
…それにしても、今石塚さんが身につけていた花柄エプロンは…


「…ごちそうさまでした」
「うん。食器はおいといてくれ。今片づける」

そういっていつも自分がしているのと同じように手際よく皿を洗い始める石塚を永野は呆けたように眺めていた。
…趣味はオヤジ臭いし、そういう意味では自分とは全然馬が合わない。
この人と居れば、俺は日々心労を重ねるに違いない。いつか倒れる可能性だって十分にある。その時はたんまりと慰謝料を払って貰おう。
一人想像にほくそ笑む永野に、石塚がふり向く。どうやら終わったらしい。一人分の食器なので大した量もなかったのだろう。

「…石塚さん。やっと分かった気がしますよ」
「何がだ?」
「自分は少なくとも貴方に信頼と羨望を抱いていた。きっと愛情と嫉妬も同質なものだと思っていました」

何も言わずに近付いてきた石塚が永野の頭を抱えるようにして抱きしめる。
はやり顔が熱くなってしまうのはどうにもできず、永野は羞恥心に耐えながらもおずおずと石塚のエプロンの裾を掴んだ。

「でも、多分それは違う。まだ、俺が貴方をどう見ているのかは判断が付きません。
 けど、貴方がどれだけ俺のことを思ってくれているのかは少しだけ分かった気がします」
「…今はそれでもいい。お前には気が付くきっかけが必要だったんだ」

腰は相変わらず気怠さを保っていたが、そっと髪触れる暖かい手の平が酷く心地良く束の間永野は目を瞑った。
それを見て石塚が薄く瞳を見せると飾り気のないあっさりとした口調で告げる。

「いずれお前にも分かるさ。永野。まだ時間はある。ゆっくり解していけばそれで良いんだ」

真っ赤なままの顔を上げるのが恥ずかしくて、返事の変わりに小さく頷く永野。
それを見た石塚の口元が自然に弧を描いた。
朝方なのでまだ昼よりか幾分ましであるものの、既に水平線を登り切った太陽が顔を出し容赦なく照りつける。
きっと、もうすぐにでも蒸し暑くなってくるだろう。
打ち水でもしておくかと、石塚は今日の予定と永野の仕事の肩代わりのことを考え始めた。

(まぁ、…でも、もうすこしだけ、このままでもいいかな)

庭の向日葵が競うように背を伸ばし、蝉の鳴き声が夏の風物詩を奏でる。
まだ夏は始まったばかりだった。