石塚弘の受難 . 5

「…というか、ここはどこだ。どこなんだ」

繰り返した自分の言葉がやけに乾いて地面に落ちた。
返事をする者もいない見知らぬ道で佇む自分はさしずめ大きな迷子といったところか。
きょろきょろと辺りを見回してみるが、夕日に照らされる景色のどれもこれもがはじめて見るものばかりで
何一つ家への道しるべにはならない。
最後の力を振り絞っている夕日の光が消えぬうちに家に帰らないとまずい。
なんせこの島は田舎だ。街灯の本数が少ない。暗くなってしまえば余計に道がわからなくなる。

「不安だ…」

ぽつり、と言葉をこぼす。そのまま「石塚さん」と呟きそうになった唇をぎり、と噛んで留める。
泣き言を言っている場合ではない。今はあの山に待つおんぼろの家へ帰ることが最優先事項なのだ。

「…行くぞ。あぁ、行くぞ!」

気合一喝。どこかまぬけなペンギン柄のTシャツの裾をはためかせ、永野はとりあえず来た道を戻り始めた。
千寿は早く家に帰ろうとして近道を選んだのだろう。ならば俺が知らなくても仕方の無い事だ。
教えられていない物事を知らないのは恥では無い。そう、云わば不可抗力。

「ああ。だから恥ずかしくなんて無いんだ。この年にして迷子なんて、そんなんじゃないんだ…!」

湧き上がる恥を抑えつつ不確かな家路を辿る永野だった。





がさ…ごそ、ぜー…はー。がさ、ごそ、ぜーはー…。がさごそ…。

「ん?」

縁側で寂しさを紛らわす為に眠りに落ちていた石塚は、葉が触れ合う音と獣の息遣いの音で目を覚ました。
熊かな?と思い慌てず騒がず納屋に置いてある猟銃の存在を頭に浮かべた石塚がそろりと足を踏み出す。

「ぜーはー!」

「…永野!?」

人の通らない裏山の方から姿を現したのは永野、だった。両手に重そうなスーパーの袋を何個もぶら下げている。

「あの、永野?」
「何ですか!?ほらほらどいて下さい。すぐに夕飯の支度をしますから」

一児の子を持つ母親のような口調で言うと縁側からのそりと入っていく永野。その背中につられるように石塚も家の中へ。

「そういえば…」

突然永野が正面玄関へと足を向けた。次に寝室、風呂場と鍵をチェックしていく。
全ての部屋を点検し、石塚の方へ振り向いて満足そうな笑みを見せた。

「よしよし、自分の言ったとおり全て鍵がかかっていましたね。あなたにも怪我は無さそうですし。合格です」

その笑みと滅多に無いお褒めの言葉、寂しさからの解放にちょっと泣きそうになったのは石塚弘だけの秘密である。
誤魔化すように先ほどからの疑問をぶつける。

「…ええと、永野。何で裏山から来たんだい?特訓?それにあんなに買い物をしてくるのは珍しいね」
「特訓!?誰が好き好んであんな道でトレーニングをしますか!」

笑みを消していつもの怒った様な困ったような顔になった永野の頭についている葉っぱや枝を取ってあげながら疑問符を重ねる。

「じゃあなんでまたあんな所から?」
「む…」

ぅ、あ、とためらいがちにした後、しぶしぶと白状する。

「近道を、したんです」
「近道」
「はい」

繰り返した石塚に律儀に返事を返して永野はキッチンへと向かう。エプロンを着け手を洗い、またぽつぽつと喋りだした。

「実はですね、帰りがけに道をど忘れしてしまいまして。
早く家に帰らなければと思っていたらこの山の裏方面に出てしまいまして。
あなたが心配だったしそのまま山を登ってきたんです以上!」

自分を気遣う部分は早口で言われたがしっかり耳に刻み込んで石塚は微笑んだ。

「うん。ありがとう永野」
「…礼を言われるような事ではありません」
「うん。迷子になったんだね。可哀相に永野」
「…!?ど忘れだと言ったでしょう!?」

包丁を持ったまま物凄い表情で振り向いた永野の刃先を避けて石塚は笑む。

「うんうん。迷子だったんだね。それでも俺の元に戻ってきてくれた。嬉しいよ永野」
「…ぐ」

笑顔にあてられて頭を撫でられてへにゃりと刃先を地面へと降ろすと、しばらく永野はその感触を味わっていた。

「あ、そういえばさ永野」
「…いちいち名前を呼ばれなくてもわかりますよ。何ですか?」
「あの大量の食料はどうしたんだい?」

ああ、と永野が頷く。

「あれはですね、スーパーからの帰り道の主婦の方々から頂いたんです。よく買い物に行くから仲良くなったんですよ」

しかめっ面でピーマンやら卵やらを物色する永野は何故か主婦受けが良かったらしい。
「不器用だけど可愛らしい学兵」として永野は地味に父島のおばちゃん達のアイドルになっていたのだ。

「な…変な男に話しかけられたりしてないよな!?」
「貴方は人の話を聞いてましたか!?主婦の方々って言ったでしょ!」

ほら、いい加減離れてください、と石塚を椅子に座らせると永野は調理を再開した。
その背中を眺める。

「なあ、永野」
「何ですか?」
「もしかしたらさ、今日の午後の俺の不幸を、永野が迷子になって引き受けてくれたのかもな」
「だっから迷子になどなっていません!!…まあ、あなたが無事なら、なんでもいいですけどね」
「優しいね、永野」
「………」

背中越しの会話はそこで途切れた。

不幸の嵐が過ぎ去ったことを肌で感じ取り、食事を心待ちにしながら石塚はまた微笑んだ。