いつになく気怠い朝だと石塚は思った。
どうやら日頃の疲れが、昨日夜半まで掛かった事務処理のおかげでピークに達したらしい。
それを知ってか知らずか、もしくは今日が日曜だからか。珍しく永野は起こしに来ない。
それを良いことにしばらく布団の中で微睡んでいたのだが、結局はじわじわと忍び寄る暑さに耐えきれず這い出るに至った。
大あくびをしながら居間へ行き、目に付いた人影におはようと言いかけて、止める。
「……その格好は何だ、永野」
大きくペンギンがプリントされたTシャツが特徴と言えば特徴のラフな私服はいつも通りだが、何故か頭には麦わら帽子を被り、小脇には物々しい大きさの荷物を抱えている。
すごく。とてつもなく嫌な予感がする。
装備一式を整え終わったらしく、どこか生き生きとした永野の表情を見れば、当たってくれるなと思ったところで無駄なのだろう。
「やっと起きたんですか…準備に手間取っていたので起こしに行く手間が省けて良かったですけど。ほら、準備して出掛けますから、早く食事を済ませてください」
「出掛けるって…どこへ?」
「ちょっとした所用ですよ。まあ、デートのようなものだと思ってください」
「………デート?」
思えば、この発言が永野のものだという時点で既に不穏であったことを判断できなかったのは、一生の不覚だったと言っても言い過ぎではないかも知れない。
「最近、お前には可愛げというのが段々なくなってきた気がするよ…」
「…百歩譲って男にかわいげを求めるのは不問にするとして、僕に求められても困りますよ」
「そんなことはないぞ。何をするにも初々しいあの過剰な反応が良かったのに…」
「それの何がいいんですか、何が」
永野のぼやきを無視して、石塚は一人ため息をついた。
ここ最近は不意をついて抱きつこうが「暑苦しいです」と冷静に対処され、この共同生活に慣れてきてしまってからは普段の何気ない所作にときめきのようなものを覚えることもなく、こうなれば実力行使だと夜陰に乗じてあれこれと仕掛けてみるものの、「またか」といった顔でこれといった抵抗もされず、その諦めっぷりはもはや永野をして観念の沙汰へと至らんばかりの有様だ。
この状況を結婚三年目にして倦怠期の夫婦さながらだとでも言ったら、にべもない一言であしらわれるに違いないだろう。
それだけの状況が続く中、不意にデートなどと言われてもみろ。四の五の言わずに食い付くに決まっている。
そこまで考えてから、はたと項垂れていた顔を上げ隣の永野を見た。
「もしかして…僕を連れ出す口実に、わざわざ期待させるようなことを言ったんじゃないだろうな」
「何か期待したんですか?」
「わざとやってるだろう」
「まあ。その、多少は」
「最近、僕をないがしろにしすぎじゃないか?ここはもう少し慈しみの心を持って互いに歩み寄ることで円満な家庭をだな…」
「誰が誰と家庭を築いたんですか!…それに、大概の要求には応じてるでしょう。僕なりに最大の譲歩ですよ」
駄目だ。取り付く島もない。
自分の言い訳じみた言葉が虚しさに拍車を掛けているのがまた泣かせる。
「大体、今日のこれは死活問題ですよ?ああでも言わないと絶対に出てこなかったでしょうあなたは」
「それはまあ、そうだな」
気のない返事を返すと、でしょう、と自信に満ちた返事が返ってきた。
「押して駄目なら引いてみろですよ」
「…そして僕はまんまと引っかかったわけだ」
再度ため息をつく。
永野の言う死活問題とは、まさに生活に直面する悲劇というか、日々の営みに突如として現れた悪夢というか、有り体に言えば食う飯がないのである。
無論、薄給に甘んじる身で普段から清貧を信条とした生活を送っているため、決して金遣いが荒いわけではない。
ただ、ここ最近の食糧事情の影響か配給が滞りがちだったために、隊をやりくりする資金を自分の懐から出した結果がこれだ。
時期が悪いことに永野も大きな出費をした後らしく、こうして切迫した状況に陥った次第だった。
飯もなければ買う金もない。給料日まではまだ一週間ある。
ならばどうするか。
結論づけるだけなら誰にでもできる問題ではあるのだが。
「…とは言ってもなあ」
ようやく目的の場所へ着き、持たされた荷物をしぶしぶと置きながらひとりごちる。
どうしてわざわざ休日に海岸まで来て、こうも悲しい事情で食料調達に奔走しなくてはならないのか。
恐らくそれを口に出したところで、永野はこちらを見ようともせずに「愛で腹は膨れないんですよ」とか言うに違いない。
遠くから聞こえる海水浴客のはしゃぐ声を聞きながら、石塚はやるせないやら恨めしいやらの気持ちでため息をついた。
「不満そうですね」
「大いにね」
「でも、二人で海に遊びに来れば立派なデートじゃないですか」
「デートという名目の食料調達でなければの話だけどな」
それ以前に男二人にデートという概念を当てはめるそれは、果たして素なのかわざとなのかと疑いたくなる。
「そう卑屈にならないでくださいよ…。分かってるんですか?ここで頑張らないと、今日の夕飯すらないんですよ?」
「ああ、永野のご高説はとても身に染みるよ」
「…人間の心の豊かさは食に比例するんですね。今確信しました」
「……分かった、やるよ…。だからそんな目で見ないでくれ」
力づくで石塚を説き伏せた永野は、揚々と支度を始める。
まず納屋から引っ張り出してきた釣り道具一式に、折りたたみ椅子。
不透明な袋にはどうやら餌が入っているらしいが、事前に買い求めてきたのか、はたまたそれすらも調達してきたのか、得体が知れない。
その餌を食べた魚を自分が食べるのを想像してしまい、ようやく絞り出したやる気に早くも減退の兆候が見えた。
普段ならどうということもないものにまで気が滅入るとは、この状況に相当参っているからに違いない。
永野の言うこともあながち間違いではないなと思い始めたころ、目の前に突如として何かを押しつけられた。
水着だ。何となく言わんとすることを察し、抵抗も諦めてそれを受け取る。
「水着があるなんて初耳だぞ」
「僕が用意しておきました」
「まさか…」
生活費からじゃないだろうなと言いかけると、永野が冗談ですよと薄く笑う。
「学校指定のやつですよ。前は授業もサボりっぱなしで一度も使ってなかったんでしょう?包装されたままのものを押し入れで見つけたんです」
肝を冷やしてくれるのはいいが、それにしてもやり方のたちが悪い。
「時に永野…これは暗に素手で手づかみしろと解釈していいのか?」
「暗にもなにも、その通りですが」
「…二人で釣りはできないのか?」
「竿が一本しか見付からなかったんですよ。あとで交代しますから、頑張ってください」
「…了解」
この逼迫した台所事情を抱えながらカロリーを大いに消費するのは得策ではないとは思ったが、かといって一人だけ手持ち無沙汰というわけにもいかないだろう。
益々デートからかけ離れていく状況を顧みながら、石塚は大人しく物陰を探した。
二時間後。
石塚は重みのあるバケツを提げ口笛を吹きながら、悠々と永野の元へ向かった。
成果はまずまずだろう。昔取った杵柄、手づかみでも意外とどうにかなってしまうのだから島育ちというのは侮れない。
素潜りで黙々と魚をとり続ける様子は端から見ればかなり異様だったかも知れないが、せめて知り合いに見られていないことを祈るばかりだ。
それに対して、永野は麦わら帽子の下にある顔を渋くしながらバケツを見せる。
大きなバケツの中に小さな魚が三匹、悠々と泳いでいた。
強い日射しを避けるようにして木陰へ逃れる。
恐らく意図したわけでなく、ただ単にこれが限度だったのだろうと思われるほどの簡単な昼食を取り終え、石塚は疲労に身体を投げ出していた。
その横であぐらをかいた永野が額を拭う。今日も相変わらずの暑さだ。
「それにしても、エサもなしにあれだけ取れるなんて凄いですね」
「これで汚名返上になったかな」
「あれだけあれば十分ですよ」
「だったら今日はもう…」
「ですから、午後は明日の分までもっと頑張りましょう!」
「……そうだな。実にそうだ」
休憩を取った後、永野の麦わら帽子を借りて暫く釣りにいそしんだものの、得物を釣り上げることもないうちに餌がなくなり、同じくろくな収穫もなく魚と悪戦苦闘を繰り広げていた永野と合流することとなった。
「よし、じゃあここらで少しやる気を喚起しようじゃないか」
「はあ、どうするんですか?」
「今から魚を沢山捕まえられた方が勝ち、はどうだ?」
「…出来レースになるのは明かなので却下します」
その目は浜辺においたままのバケツに向けられている。
「じゃあ、あそこに見える沈没船まで速く着いた方が勝ちだ」
「もう今日の主旨と関係ないじゃないですか」
「…そう言えば、お前は走りでも泳ぎでも僕に勝てた試しがなかったな」
「…なぜ今このタイミングでわざわざ昔のことを蒸し返すんです?」
「いや、そうだよな。急に思い出しただけなんだが、昔のことだしな。やりたくないなら別に…」
「やらないとは言ってませんよ!いいですよ、ええやりましょう。昔の僕とは違うってところを見せようじゃないですか!」
「そうか?やるからには本気でいくぞ」
永野は一度、自分が乗せられやすい性格であることを認識した方がいいなと思いながら、石塚は笑顔でスタートを切った。
「思ったよりも速かったじゃないか」
石塚は立ち泳ぎのまま傾いた船体に手を掛け、肩で息をしている永野を労うが、当の本人は相も変わらずしかめ面を崩そうとしない。
「…負けましたけどね」
「いや、中々いい勝負だったじゃないか」
「むしろ貴方が本調子じゃなかったでしょう…最近は訓練もさぼっていたようだし、夜も遅いし」
それを言われるとどうにも耳が痛いというか、永野からも隊長が模範にならないでどうするんだと何度か忠告を受けた覚えがあった。
しかし最近は色んなものに追われて休む暇もなかったから、仕方のないことだと永野も納得してくれていると思っていたのだが。
「だから、少しはいい気分転換になると思って…」
「…気分転換?」
一瞬、あ。といった顔を浮かべた永野だったが、視界から逃れようとしての行動か、水面に目だけを残して顔を沈める。
「…永野?」
ぶくぶくと水面に泡が浮かんでは消える。
おそらく、穴があったら埋まりたい衝動にでも駆られているのだろう。
しかしこういう場合、相手に考える時間を与えるべきではない。気持ちは分かるが、その点は失策だ。
当の永野はこの後どう弁明するつもりなのか、しばらく様子を見ていようかとも考えたが流石に酷かと思い直し、おもむろに水面から出ている頭を掴むと、そのまま海中に押し込んだ。
あまりに突然の出来事にもがく永野を少しだけ引き留め、ぱっと手を離す。
途端に浮上した永野は海水を飲んだのか、激しく咳き込みながら顔を上げた。
「何なんですか急に…!びっくりするじゃないですか!」
「驚かせたからな」
「だから何で…!」
「なんだかんだで今日はいい息抜きにはなったし、またデートするのも悪くないな」
これだけ恨みがましい視線を向けられてもどこか嬉しく感じるあたり、自分も相当きているなと思わずにはいられない。
にこやかに応えたつもりだったが、永野は何やら複雑な表情になると、激しく水飛沫をあげながらスタート地点へ向かって猛然と泳ぎ去っていった。
若干拍子抜けしながら、豪快な泳ぎっぷりを見送る。
「なんだ。さっきより早いじゃないか」
夕陽が水平線に掛かろうとする頃、二人は収穫物の入ったバケツを片手に帰路についた。
これでなんとか給料日までは事足りるだろう。しばらく魚を食べる気は起こさなくなるだろうが。
当面の問題も解決し、帰りはさぞ足取りも軽くなるだろうと思いきや、永野は本日のもう一つの意図を自分から漏らしてしまったのがよほど堪えているらしく、顔さえまともに見ようとしない。
「…永野。今日はありがとう」
「僕は、そういう風に思われたくなかったから黙ってたんですよ…」
「そうなのか?」
どうやら永野の中では、あくまでもさり気なく悟られないように目的を遂行するつもりだったらしい。
恐らく、こうも落ち込んでいるのは僕ではなく本人の満足度の問題だろう。
どうしたものかと考えた途端、ふと思いつくことがあって口を開いた。
「言い忘れてたんだが、さっきの競争で負けた方は買った方の言うことを一つ聞くというのがあったんだが…」
「…はあ?そんなの初耳ですよ!」
「だって、ただ競争しても疲れるだけじゃないか。それくらいのものがないとやる気が出ないだろう?」
「僕は純粋な競争心だけでやる気を出しましたよ!」
「まあ、それは置いといてだな」
勿論、そんな条件はこの場の思いつきであるため自分も割と真剣だったのだか、嘘でも下心だけで頑張ったなどと言えば永野の損耗甚だしい精神に追い打ちを掛けるだけだろう。
おもむろに立ち止まり、永野の腕を掴んでから片手の塞がっている不自由さを感じた。
対する永野は大荷物で両手が塞がっているのだが。
「永野」
「な、なんですか」
「これからもうまい飯を頼むぞ」
「は、はあ………それが、あれですか。負けた方が言うことを聞くってやつですか」
「そうだけど…なにかおかしいか?」
「いえ……それ、何だかプロポーズみたいですね」
…だから、それを男二人で言い表すのは若干の誤用と語弊がある気がしないでもないのだが。
恐らく、自分でも何を言っているのか分かっていないに違いないほどの狼狽が見て取れたので、黙っているのが懸命だろう。
手を離してやると、永野は心底ほっとしたように早足になって歩き出した。
「…僕はてっきり、また変なことをさせられるんじゃないかと…気が気じゃありませんでしたよ」
「それは別に頼まなくてもやってくれるだろう」
何気ない軽口のつもりで言ってから、しまった、と思ったが永野の耳にはしっかりと通っていたようだ。
…まさか二人して同じ失態を犯すとは。
これも空腹から来た迂闊さか、はたまた気が抜けたための油断か。
照れなのか一種の自己嫌悪なのか、立ち直り掛けた精神がそれすらも通り越して沸点に達してしまったのか、永野は俯いたまま耳まで真っ赤になって肩を震わせている。何か言おうとはしているが言葉が出てこないようだ。
どうやら、不覚にも最後の最後で選択を誤ったらしい。
我に返って呼び止めようとするも虚しく、永野は砂埃を巻き上げる勢いで足を早める。
それでもバケツの水を零さない辺りは流石と言うべきか。いや、今は感心している場合じゃない。
何とか追いついて併走するも、やはりこちらには見向きもしない。
「…永野!」
「……」
「流石に今のは悪かった!つい魔が差したというか…」
「貴方にはいつも魔が差してるんじゃないですか?」
「ああ、そうだな…全くだ」
「…認めるんですか?」
「いや…その、そういう意味じゃ……ごめん」
「…もう知りません!!」
競歩並の速度で決して短くはない家路を踏破し、気力すら使い果たしてくたくたになりながらもなんとかありついた夕飯の焼き魚は、少し塩辛かった。
その後、永野がまともに立ち直ったのは食卓から魚が消えた後だったという。