「あれ…石塚さん?」
風呂から上がって来てみれば、何故か部屋が真っ暗だった。
テレビすらついておらず、室内はどこか安穏とした落ち着きある静けさに包まれている。
石塚が縁側に座って一人空を仰いでいるのが暗所に慣れない目に辛うじて捉えられた。
「やっと来たか。月が綺麗だよ」
そう言って手招きする石塚の隣に座るよう促され、永野は言われるがままに従った。
「灯りまで消して…何してるんです?」
「見ての通りだ。空を眺めてたんだ」
今日は満月だ、と再び目を空へ移す石塚に倣い、永野も首の角度を上げる。
ここは空気が澄んでいるのかいつも空一面に星の一群が見られるのだが、今日は更にそれらが鮮明に形を成しているように思えた。
目のやり場に困るほど千々に広がり波打つように強弱をつけて光る様は、まるで空の海原だ。
不意に思いついた文学的な表現に自分で満足しながら、永野は隣の石塚の様子を見ようと何の気なしに夜空から視線を外す。
手元の瓶と透明な2つのグラスが目に付いた。片方には既に「何か」が注がれている。
「…石塚さん。また飲んでたでしょう」
「何かいけなかったか?」
永野の咎めるような口調に、石塚は心外だと言わんばかりの表情を向けた。
その反応に釈然としないものを感じながら、永野はボトルグリーンの瓶に目をやる。
まだそんなに進んではいないらしくて少し安心した。
「…身体に良いものじゃないでしょう」
「少しならどうってことない。それこそ、浴びるように飲むなんてことはしないから大丈夫だ。それに好き好んで飲んでるわけじゃないんだしさ」
どこか宥めるような口調の言い訳に、永野は黙り込んだ。
その話は聞いた。だが好きでないなら飲まなければいいだけの話だろうに、とも思う。
何時だったか何故か定期的に補充される酒の出所を問いただしたときに、石塚はとあるツテから物資と一緒に回ってくるのだと話していた。
そのツテというのもどうやら正規のルートではないらしく(その辺は石塚の苦労を慮って、敢えて追求していない)
何故か物資と一緒に回ってくるそれらを石塚はどう処理すべきか考えたらしい。
送り返そうにもどこへ送ればいいのか分からないらしい。ましてや、大人とはいえ先生たちに渡すなんて真似は論外だ。
捨てようにも中身を空けなければいけないし、かと言ってそのまま捨ててしまうのは勿体ない。(中には結構良い値段がする物も混じっているらしい)
なら自分で処分していくしかないと、消去法で『仕方がなく』晩酌の真似事を続けているのだと石塚は言った。
初めはその話の信憑性を疑いはしたが、毎回銘柄も種類も違って一度として同じものを飲んでいるのを見たことがない上に、そもそも未成年に酒が買えるはずないという結論に行き着いた永野はそれらを踏まえた上で見て見ぬ振りを決行してきた。
流石に、火を付けたら燃えそうなほどの度数のものを見つけたときは散々言い聞かせてそのまま捨てさせたが…。
「永野も偶にはどうだ?」
「遠慮します」
「君には付き合いっていう概念がないのか?」
「…付き合いという名目で共犯にはなりたくないだけです」
何年後、将亦何十年後にこうして二人で酒を酌み交わしながら「あの頃は」とお決まりの文句を連ねて昔話に花を咲かせる。
孤島に二人屋根の下で過ごす今が過去形になってしまう、そんな未来を想像したことがないことはない。
それ故に、二人で酒を飲むなどといったことはまだ遠い先の話だと思っていた。
「僕には、まだ早いですよ」
「まあそう言わずに」
準備が良いというか、永野の言葉を聞き終わる前にもう一方のグラスに手際よく瓶の中身を注ぐ。
「これは割と飲みやすいからさ。まあ騙されたと思って」
気難しげな表情で唸る永野だったが、「なんなら飲ませてやってもいい」と呟く石塚の言葉の意味を解し、しぶしぶといった態で手を伸ばした。
「…少しだけですよ?」
結局押し切られてしまう自分がどこか滑稽で、情けない。
酒の種類などに詳しいはずがないので良く分からなかったがが、色と香りから恐らくワインの類だろうと永野は合点をつけた。
手元が暗く良く見えないが、グラスの中で透き通った液体が僅かに色づいている。
恐る恐る口を付け、少しだけ口中にそれを流し込み、嚥下するのを見計らって石塚が覗き込むように永野の様子を伺った。
「どうだ?」
「…まあ、思っていたほど不味くはないですけど…」
少し変わった味のジュースだと思えば飲めないこともないなと思ったが…それよりも、何だか変な感じだ。
妙な高揚感というか、変に昂ぶるというか…嫌な例えだが、戦場で夢中になって眼前の敵に銃弾を叩き付けている時に感じるものに似ているな、と思う。
酔って気が発揚しているにしても、飲んだ直後に酔うとは思えない。
多分慣れないものを口にした所為か、それを意識しすぎているんだろう。
不意に、喉が渇いていることに気が付く。
永野はほぼ反射的に手元のグラスを口に付け、少しだけ躊躇った後、残りを一息に煽った。
元々大した量は入っていなかったし、何より今まで味わったことのないアルコールを喉に流し込む感覚が新鮮だったものある。
「何だ、そんなに美味しかったか?」
結局付き合ってくれるものだと思ったのだろう。
二人で飲めばその分処理も速く片付くのだから都合が良い。
揚々と次を注がれる様を、永野は憮然とした表情でじっと見据えていた。
最初の瓶は石塚が幾らか飲んだ後だった所為もあり、すぐになくなってしまった。
しかし一口飲んだ時から感じた違和感はずっと続いたままだ。
それに、何故かすぐ喉が渇く。
そして程よく冷やされた手近な飲み物に手を付け、何だか妙な感覚に襲われる。その繰り返しだった。
二本目もそろそろ底をつきそうだった。
夏の夜にしては涼しげな風が火照ったように熱い頬を撫でて行くのが心地良い。
石塚は全く顔色を変えずにグラスを傾けている。視線は相変わらず月を見上げ、心なしか口数も少なくなり先程から上の空だ。
何となくその目が嫌で、少し身を乗り出して石塚の服の裾を掴む。
我に返ったように永野を見る石塚が一瞬だけ面食らったが、すぐに心配そうな素振りで顔を覗き込んだ。
「永野…飲み過ぎなんじゃないか?顔が真っ赤になってる」
「…石塚さん」
声も少し掠れている。
何か言おうとするものの、何を言って良いのか分からず言葉が出ない。
のぼせたように混濁する意識の中、ただ頬に添えられた手の温度が心地良くて思わず目を細めた。
「…無理しなくても良かったのに」
少し怒ったような口調は自制できなかった永野に対してか、それとも無理に酒を勧めた事への自責なのか。
永野はようやくこの夢心地な感覚がアルコールの所為なのだと認識した。
「水を持ってくる」と短く言い捨てて、石塚は立ち上がろうとする。
その腕を咄嗟に掴んだ。
「どうした?すぐに戻ってくるから」
「い…」
飲み込んだ言葉が「行かないで」だったのか、「嫌だ」だったのか…それとも、彼の名を呼ぼうと思ったのか。
何にしろ、それ以上言葉は続かない。
後ろめたいことなどないのに目を合わせていられなくて、ひんやりと冷たい床を見つめる。
「永野」
優しい声音に思わず顔が歪んだ。
何だろう。さっきから何かがおかしい。少なくとも平時の状態ではない。
きっと自分の許容量を超えて飲み過ぎたんだろう。それは分かる。しかし喉の乾きは収まらない。
それならば尚更、自分を気づかってくれた石塚を止めるべきではなかったはずなのだが。どうして、無理に留めたりしたのだろう。
ただでさえ微睡む頭で思索に耽っていた所為か、石塚が諦めたように、どこか慈しむような表情で口角を持ち上げたのに気付かなかった。
「多分飲み過ぎだと思うんですけど、何だか……おかしいんです」
今の自分の状態を言葉に表すのに、それ以上のものは思いつかなかった。
吐き気と言う意味ではなく、気持ちが悪い。胸に閊えてもどかしい感じだ。
すぐ傍に腰を下ろした石塚は、俯き片手で頭を抱える永野の背中を軽くさすった。
耳まで赤くした永野は気のせいか息も荒く、如何にも調子が悪そうだ。
ようやく石塚の首もとまで顔を上げると、涙目になって小さく呻く。
囁くように永野、と呼んでみるとそれに反応したのか定かではないが、永野は僅かにかぶりを振った。
もう一度呼んでみる。しかし、突然のし掛かられて姿勢を保てなくなった石塚は床に頭を打った。
驚いたが、息が詰まりすぐに声が出なかった。
「……づかさ…」
上に乗ったままの体勢で永野が力なく抱きついてきた。その手の平が服を鷲捕み、その手中へと手繰る。
無防備に身体を預けてくる様は、まるで甘えているようにも思えた。
呂律が回らないのか、舌足らずな声で聞き取れない何かを呟く。
首筋に埋められた頭を撫でるように指を髪に差し込むと、くすぐったいのか、永野は嫌がるように身動ぎをする。
永野の片手が額に、まるで石塚の頭を固定するかのように置かれる。それはすぐに思い直したように、目元まで下がってきて暗く視界を覆った。
どうしたんだろうと、酔っているのか様子の違う永野に石塚は疑問を持ったが、それ以上を考える暇は与えられなかった。
不意に口元に触れる、何か。
「う、……っ」
言葉を成さない上擦った声に、自然と気が昂ぶるのを感じた。自分にもようやく酒が回ってきたのか。
唇を割り開くように探るそれが舌であることにもすぐに気が付かなかったのだから、今日は珍しく相当酔っているに違いない。
そう言い聞かせながら、石塚はもどかしい動きで口内に押し入ろうとするそれを為すがままにしていた。
永野だってそうだ。平時の永野が積極的に求める事などまずあり得ない。
僅かな緩みをついて柔らかく濡れた舌先が進入する。まさぐるような、不規則な動きに知らず息が上がり石塚は僅かに顔を顰めた。
何だか、とてもまずい予感がする。
先程目があったときの物欲しそうな、ふて腐れたような、永野にしては珍しいそんな顔が思い浮かんだ。
恐らく永野は誘っているでもなくただ酔いにまかせて甘え、じゃれているつもりなのだろう。
行動はどちらかというと動物じみていて、普段なら鉄壁のように強固な理性が無いに等しい事態になっているが。
普段なら「自ら」なんてそれこそ恥ずかしい以上の何者でもない行為など、幾ら頼んだところで拒むだろうに。
多分酒の助長も無ければ為し得なかっただろうこの状況が、それはそれで嬉しい気もしないでもないのだが。
列なりをなぞり、緩急をつけて舌を吸われるようなぎこちない動きが、まるで自分の手管を模倣されているような気がしてならなかった。
なんとも形容し難い顔で、それでも石塚は一応の面目を保とうと僅かに自分の舌を絡めた。
それだけで永野は全ての動きを止め、我に返ったように拙く蹂躙を繰り返していた舌を引っ込める。
反射的に退こうとする永野の頭を抱えて肩口に押し遣り、石塚は嘆息した。
(お預けがこんなに辛いとは思わなかった…)
永野のことだ。いくら理性が崩壊しつつあったとしても、自分の手管のない以上ここまでだろう。
おまけに、珍しく永野が『晩酌』に付き合ってくれたのが嬉しかったのか、普段より大分飲み過ぎた自分も今は酔眼朦朧としてしまっている。
ふと耳元から聞こえてくる寝息に苦笑いしながら、頭を傾けて直ぐ傍の顔を見る。
「…こうなると思った」
いつもは眉間を寄せ気難しげにしている顔が寝ている時だけは弛緩し、どこか安らかであるのを石塚は知っている。
片手で肩を引き寄せると、僅かに呻き声が漏れた。未だ酒気を帯びて赤みの差す顔が僅かに歪む。
呼応するように永野の手が石塚の胸の位置で衣服を掴む。図体のでかい赤子か何かのようだと思うとおかしかった。
その無垢な寝顔に、どこか年相応の面差しを感じた。固く落とされた瞼は頑として開こうとしない。
起きる意志がないなら、微睡みの内に眠りを求めるなら、このままにしておいてやろうか。
辺りに光源となり得るものはなかったが、視界の端に微弱ながら地表を照らす小さな星が見える。
石塚はそれに向かい小さく手を伸ばした。