疾走少年 . 2

強い日差しの午後。

真上より僅かに下った位置にある陽光が眩しく、片手を翳して目を細めながら永野は空を見ていた。
もう夏もピークを過ぎたな、と思う。
かと言って涼しくなったわけでもなく、太陽は容赦を忘れたかのようにひたすら地表を焦がし続けている。
先程までこの炎天下で訓練と称し身体を動かしていたのだが、流石にもう動けない。
植え込みの木々が日陰になって直射日光を遮り、適度な空間を成しているそこに座り込み難を逃れる。
汗が一筋頬を伝い落ちた。地面に染みが残る。

「…暑いですね」
「ああ、そうだな。…珍しいね。ぼーっとしてる永野なんて」
「今日は、休業日なんです」

文字通り上の空な永野は少しも石塚を見ずに言った。
先程から傍でずっと本を読んでいた石塚も「そうか」と、どこかおかしそうに相づちを打ち再び字面に没頭し始める。

「…暑い」

永野は誰にともなく呟いた。


もう何年もここにいるような気がするが、実際は三月と経っていないのだなと不意に思う。
それでも、それだけの期間に濃縮された日々はなんとも忘れがたい出来事ばかりだった。

初めの「賭け」の期間は一ヶ月だったはず。
石塚を本土に連れ戻そうと躍起になっていた時期だ。今ではその理由も無ければそんな気概もない。
もうずいぶんと島の暮らしにも馴染んで来て、少しずつではあるが分かった気がする。
石塚が頑なになってこの島に居たがる理由が。

自分だって、居心地の良いこの島に居るか、いつ死ぬともしれない危険のある戦場へ向かうかと言われたら前者を選びたい。
でもそれは途轍もなく我が侭で、身勝手だと分かっているから僕は僕がここにいることが許せないのだ。
こうしてただ時間を持て余している間にも、何人かが死に、その死に何人もの人間が悲しんでいるのだろう。

「……永野」

不意に聞こえた呟きに反応して石塚を見る。途端にのし掛かってくる重み。
本に飽きたのか、石塚が目を瞑り自分に寄りかかって寝る姿勢に入っている。
どうやら石塚は最近疲れ気味らしく今日も授業中にうたた寝をしていた。

(仕方がないんだろうな…これからの事を考えると)

撤退までの残りの期間を無事に、全員で生き残るために。この人は出来る限りの手を尽くしている。
それに引き換え、自分には一体何ができるだろう。いや、何かしないといけないのに。
静かな寝息が聞こえてくると起こす気も失せ、せめて今だけでも好きにさせてやろうと思った。
その寝顔を、盗み見る。


『俺と一ヶ月、この島で暮らそう』


…ああ、懐かしい科白だ。


『もし、一ヶ月後、君がこの島に一ミリも愛着が湧かなかったら、俺は君と一緒に本島へ戻る』


ただの口約束。一ヶ月のタイムリミット。
互いが互いの信念を賭けた駆け引きに、一体なにを期待していたのだろう。
今も勝ち負けは有耶無耶のままで、結果的には不本意にも僕の願いが叶うことになってしまった。
石塚さんは、どう思っているだろう。


『この島に残りたい、俺と暮らしたいとお前が言えば。賭けに負けたと白旗を上げさえすれば。この穏やかな毎日は簡単に手に入るんだぞ?』


それは甘辞であり、詭弁でもあった。
状況は互いが思っているほど安易なものでもなくて、物語は父島の放棄という形で一旦の終焉を迎えることになる。
石塚も初めはあんなにも意固地になっていた癖に、最近どうも悔いの残らないようにとやり残したことや、しなければならないことを虱潰しに消化していくような、そんな行動をしているように見えて仕方がない。
仮に全てこなしたからと言って悔いが一つも残らないわけではないだろうに。

(かく言う僕は、これと言って何もせずに残り少ない日々を自堕落に過ごして良いものか…)

答えは、ノーだ。
そう遠くない夏の終わりの日まで、悔いだけは残さないように。

「…ごめん、うたた寝してたみたいだ。これだから永野の身体は寝心地が良くて困るよ…」
「…人を枕にしないで下さい」

小さな欠伸を漏らしながら石塚は起きあがった。
永野もそれに習う。地面に置いたままの本を拾い上げると石塚に差し出した。

「ありがとう。僕はまた仕事に行くけど…」
「遅くなりそうですか?」
「いや、程々で切り上げて帰るよ。永野の作った夕飯が食べたいから」
「そんな、たった一日かそこらで…あー、今から昨日壊れた寮を見に行くんで、帰りに何か買ってきますよ」

寮を見に行く、と聞いて石塚が首を傾げながら永野の頭に付いている葉をつまみ上げた。

「何かあったのか?…ああ、私物なら諦めた方が良い」

昨日の見事なまでの崩壊っぷりを思い出してか、石塚は苦笑いを向ける。
思い出したように本の読みかけたページを捲りながら、葉を栞代わりに挟み込んだ。

「…まあ、けじめというか、何というか」
「分かった。ちゃんと夕飯作って待っててくれよ」

あっさり引き下がった石塚は、言いよどむ永野の頭を軽く撫でそのまま校舎へ向かおうとして、それを止める。

「そうだ」
「?──っ」
「くれぐれも『軽率な行動』は控えるように」

耳元で響く低音に身体を強ばらせる永野が、何か言いたそうな顔で石塚を睨み付ける。
何も見ていないふりをして掠めるように口を塞ぐと僅かに身体が跳ねた。
じゃあそう言うことで、と踵を返す石塚の後ろから我に返った永野の声が届く。

「…い、言われなくてもそんなことしません!」
「分かってるよ」

やはり永野は永野なんだな、とどこまでも従順なその言葉に石塚は一人笑みを漏らした。