父島ペンギン伝説

「お、なんだ二人して。もう帰るのか?」

鞄を手に持ち、教室の扉を開けようとしたところで田島から声をかけられた。
意識はしていなかったが、隣に並んでいる永野とほぼ同時に振り返る形になる。

「ああ、雪がひどくなる前に退散させてもらうよ」
「そうか。気をつけて帰れよ」

ひらりと手を振ってくれた田島とは対照的に、今年最後の授業が終わって名残を惜しむように教室でたむろしていた他の面子が口々に不満の声をあげる。

「なんだよいいんちょー!つきあい悪いぞ!」
「そーだよー!永野だけでも置いてってよー!」

特に目立つのは松尾とえりすの駄々っ子っぷりだ。
隣で呆れたような、微笑ましい小動物を見るような、曖昧な表情をしている永野に「どうする?」と声をかけると「帰りますよ」という簡素な返事がかえってきた。

「ちぇー、つまんねえのー」
「永野、いいんちょ、よいお年を!」
『良いお年を!』

えりすの言葉を皮切りに、クラスに残っていた全員から年末の挨拶を背中に受けて教室を出た。



「永野は子どもに好かれるな」
「馬鹿にされているだけなんじゃないかという疑問を必死に振り払う毎日ですよ…それにしても、これはいいものですね」

着用しているダッフルコートの襟をつまみ上げて永野が感想を述べてきた。
橙色と茶色の中間と言えばいいだろうか、なんとも表現し難い色をしたこのコートは、珍しく軍から与えられた支給品だ。
どのようなルートで流れきたのかは判然としないが、クラスの人数分配られたので冬が始まる直前に学校でそれぞれにばらまいた。
青森で採用されているらしいコートは、やはり暖かい。
家に備蓄しておいても仕方がないから惰性で配ったものだが、今ではクラス全員がこれを着込んで登校している。

「せっかくですから、手袋も支給してもらえばよかったですね」
「手でも繋ぐか?」
「勘弁してください」

ずり落ちてきそうなマフラーを直しながら、永野が答える。

「それにしても珍しい、永野がマフラーなんて」

夏に正装でこの島をうろついていたような彼が、しっかりと季節に合わせた格好をしていると不思議な感じがする。
また非合理的な信条を掲げて防寒をしないのかと思ったが、温かそうなマフラーを巻きつけている。

「千寿から貰ったんです。寒そうだからと」
「ああ、なるほど。でもやけに年季が入ってるね」
「…あの子の、お父さんのものだったそうです」

マフラーにそっと手をやって永野が囁くように言った。
これ以上彼の感情を揺らさないようにいつも通りの声のトーンを意識して返事をする。

「そうか。でもこんなに雪が積もってるんだ。あの子も今頃どこかではしゃいでいるだろうね」
「ええ。たまには雪遊びにでも付き合ってあげるといいかもしれません」
「違うよ永野。千寿ちゃんと僕が永野と遊んであげるんだよ」
「その減らず口に雪でも突っ込んだら黙ってくれますかね」
「冗談だよ」

うっすらと冷え込んだ会話を常温に戻してから、また黙々と二人で歩いた。
雪はしんしんと降り積もっていく。
夏の熱気が嘘のようだ。
あの暑さを冬に切り売りすることはできないものか、と不毛な思考をめぐらしているうちに我が家へ辿り着いた。



寿命などとっくに迎えていそうな古い石油ストーブを点火する。
コタツに足を突っ込んで、石塚さんと向き合う形になった。
じわじわと温かくなる室内に合わせて緩みそうになる顔を見せるのが嫌で少しだけ顔を伏せたが、すでに彼はこちらなど見てはいなかった。
近くの戸棚から引っ張り出してきた文庫本を読んでいる。
「何を読んでいるんですか」と声をかけようとしたけれど、読書の邪魔をするのはよくないので口を噤む。
なるべく音をたてないように注意しながら、白い湯のみに熱い緑茶を淹れてすすった。
文章を目で追いながら、彼は時折眉間に小さな皺を寄せる。
好奇心を刺激された箇所があるのだろう。
視線に気が付いたのか、読んでいた本の背表紙をこちらに向けて「興味あるか?」と尋ねてきた。
「ええ、まあ」と曖昧な返事をすると、今しがた読んでいたのであろう部分を朗読する。

「『死と隣り合わせの戦場で、ぼくは強く意識する。自分がまだ生きているということを。
死が傍らにあることでのみ、自らの生を実感することのできる手合い。
スリル中毒、アドレナリン依存、なんと蔑んでくれてもかまわない。
自分が生き延びるために他人の命を奪う。
他人を踏みつけにしてでも自分の生存を優先する。
その生の実感こそが、ぼくがいまだ戦場にしがみついている理由なのだ』」

数行の朗読を終えて、彼は「…だってさ」と他人事のように締めくくった。
どのような言葉を返せというのだろう。

「…また物騒な。そういう話題がお好きなら、語り合いましょうか?」
「そうだな。機会があれば戦闘中に無線で語り合おうか。これ以上ないほどリアルタイムだ」

真剣に話し合う気はないということか。
しおりも挟まずにそのまま本を閉じるといつもの表情を向けてくる。
「話は変わるけどさ」と前置きをして、窓の外で降り頻る雪を眺めながら彼が話し出す。

「夏になったら線香花火でもしようか、永野。家の庭は自慢じゃないけど広いからね、誰にも気兼ねなくできるよ」
「あの暑さをまた味わわなくてはいけないんですか」
「永野は既にここの夏を知っているから…もう僕より地元に馴染んでるんじゃないか?」

はは、といつもの真意の読めない笑顔をこちらに向けてくる。

「どうだ、骨をうずめる気になったか?」
「ここに、ですか」
「ああ」

湯のみを持つ彼の手をぼんやりと眺めた。
この皮膚の下には、雪よりも白い彼の骨があるのだ。
せめて互いの骨だけは、この島で共に葬られることが可能だろうか、とあらぬ方向へ思考が飛躍する。
生きているうちはどうあっても長く共にいることは叶わない。
来年の夏に花火?
なんて気が遠くなる予定だろう。
そんな生温い世情では、ないのだ。

「どうした…?」

何故か彼の声が遠くなっていく。
それほどまで自分は考え込んでいたのだろうか。
慌てて意識を引き寄せようとしたところで、ぐらりと目眩がした。



「おはよう、永野」

聞きなれた声と共に、頭上で手が降られた。
見慣れた形の五指と手のひら。
…ああ、自分は夢を見ていたのだ。
思えば始めからおかしかった。雪の降る父島で、彼と二人で語り合っているなんて。
夢の中でよくそれと気付かなかったものだ。
名残とでもいうのか、彼の手首に思わず目がいく。
そのまま、何も考えずに掴んだ。
まるで祈るように一瞬だけ目を瞑ってしまう。
芯まで刻み付けるように、息すら止めて。
「なんだ、新しい遊びか?」と、こんな突飛な行動にもまったく動じず彼は言う。

「…ええ、寝惚けているんです」
「自己申告か。潔くていいじゃないか」

ふりほどかれなかったことに安堵して、彼の手をもう一度だけ強く握りこむ。
夢の中で痛いほどに感じていた寒さは忘れてしまったけれど、この骨の感触だけは覚えていよう。

「ああそうだ、今日は珍しく夢を見たよ。良い夢だった。目が覚めたとき、ほんの少しだけ後悔してしまったくらいに」
「そう、ですか」
「でも過ぎたるは及ばざるがなんとやら…ってね。良すぎる夢はある意味で悪夢だな」

困ったな、とでも言いたげな苦笑いを向けられて少し驚く。

「どんな夢だったんですか…」
「気が早いんだけどさ、季節が冬になってて。これだけ毎日暑いのに馬鹿みたいだろう?」

彼が視線を移した窓の外には夏の空が広がっていた。
この島には冬など訪れないと錯覚してしまうほどに、綺麗な青だった。