グッドブルー

中天にさしかかった太陽が、じりじりと地表を焦がしている。
もうそんな季節かと、幾度も数えた季節の到来に妙な感慨と憧憬を覚えながら、足を止めた。
長い渡り廊下の途中、半開きの硝子窓を開け放ち、肘を突いて僅かに身を乗り出す。
施設の規模、その広さの割に人気がないのは、授業の時間帯であるためだろう。
炎天下の中、広大なグラウンドのトラックを一心不乱に走る者。
少し外れた場所では格闘訓練が行われ、試合の模様が白熱するにつれ、観衆の熱気も徐々に上がってきているようだ。
あの教官は、苦しむ人間を見て喜ぶ趣味があるのではないかと疑うほどに容赦がないから、この季節ともなると熱の入りようも格別のものだろう。
自分にもそんな時節があったなと、束の間の懐古に浸りながら、人目がないのを改めて確認し、襟元を緩め息をついた。

政府が父島の放棄を発表してから、早くも季節が一回りしようとしていた。
本土から呼び戻されて戻ったはずの自分も、結局は前線に復帰することなく、「今は戦うことよりも新たな人員の育成が急務だ」というお題目で教官として本校に潜り込み、そのままに居着いている。
これは決して後ろ向きな理由から選んだ道ではない。
戦場に出るのが嫌なのかと言われれば否定はできないが、それが理由でないことは確かだ。
戦う以外の方法で、少しでも人を助けるために教鞭を執っている、というのはあまりにも白々しいかも知れない。
思わず自分で吹き出してしまうほど、ひどい出来だ。
ここは人を助け、そのために死ぬ人材を輩出する機関だというのに。

はたして、ここからどうすれば偉くなれるか…。

当面はその問題に尽きるだろう。
結果的に復帰を果たしたとはいえ、一度は左遷の憂き目に遭った身だ。
一度出世の道から脱落した以上、生半可な勲しでは成し遂げるのも困難と言える。
よしんば武功をあげられる立場に戻れたとしても、以前と同じく、戦地を変え部下を変え…最後には使い潰されるなり激戦区に送られるなり、今度こそ誉れある戦死、二階級特進、ゴッドスピード、というのが良いところだ。
今はまだその期じゃないい。
そんなことを誰に言ったところで理解を得るのは難しいだろう。
ただ数多の部下を失った傷心故の逃げであると、弱さであるとは思われたくなかった。
一年近く待った。まだ、もう少しなんだ。
これは、いつか約束を守るために、僕が立てた僕への戒めだ。
間違ってはいない。むしろそうであって欲しいという願望を切り捨て、強く信じる。
かつての部下は、仲間は皆、僕を信じて戦ってくれていたのだ。
そんな僕を僕自身が一番に信用しなくてどうする?
まずは少しずつ、自分から変えてかなくては。
それが出来れば、もっと大きな何かが…いずれは、戦況を、国を、世界さえ変えられるかも知れない。

(…それは流石に大げさだな)

しかしその意志がなければ、何も動きはしないというのも道理だ。

(まあ約束だからな…約束と言ってしまったからには、どうにか守りたいものだが)

「おや、鬼教官ともあろう方が人目を盗んで小休止ですか?」

一瞬ぎくりとして首もとに手をやったが、曲がり角から覗く顔を見て、思わず声を上げた。

「嶋君じゃないか…!いや、本土では嶋先生って呼んだ方が良いのかな?」
「以前の通りで結構ですよ。お互い階級はそのままでしょう」

いかにも仔細らしい仕草で眼鏡に手をやりながら、嶋は窓辺の石塚に並んだ。

「いやあ、かれこれ一年ぶりですかねえ。中央でもご活躍の程、伺っておりましたよ。鬼教官殿」
「…その呼び方を聞く限り、僕にとって嬉しい評判ではなさそうだね」
「お気に召さずば止めましょう。…ま、石塚さんが元気だと分かって、ボキは大層安心したわけでして」

かつての朋輩と所属の違いを明確に分ける衣服に袖を通しながら肩を並べる。それが妙に物悲しくもあり、嬉しかった。
他の仲間は今も元気でやっているだろうか。
きっとこの季節が、そんな風にそう思わせてならないのだろう。

「その様子だとスランプは脱したようだね」
「おかげさまで。どうにもやりにくい巣穴ですが、できる範囲で好き勝手にやらせてもらっていますよ」
「相変わらずだな。今日はどうして本校なんかに?まさか僕と思い出話をしにきたんじゃないだろう?」
「それも、ないではないんですが」

嶋は窓を背にすると身体を預けた。
賑やかな外とは対照的に、熱気に蒸されるような校内はしんと静まりかえっている。
先ほどの石塚は余程油断していたようだが、固いリノリウムの床は忍び足で歩いても僅かではあるが歩調に合わせて固い音を立てていた。
気休めに耳を立てるが、静寂の中に潜む気配は感じられない。
鳴き喚く蝉が一息つくのを待って嶋は薄く口を開いた。

「戦況はあまり思わしくないようです。どこに行っても、経験豊富な士官は慢性的に不足している。自然休戦期はもうすぐですが、今の状態ではそこまで持ちこたえるのが限界でしょうね。そう遠くないうちに前線へ向かうことになるでしょう」
「……」
「捲土重来のチャンス、ですよ」
「もしくは一世一度のピンチ、かな」

短く暗澹とした返事の中にも思わせぶりな響きがあったのを嶋は聞き逃さなかった。

「…その顔は、それが狙いだと言わんばかりですねえ」
「そう見えるかい?」
「分かりますとも。散々、将棋盤を挟んで熱戦を繰り広げた仲じゃないですか。勝っていたはずの流れから巻き返されて一体どれだけ負けたことか…」
「そうだな…そうだった」
「消耗戦に陥っている今前線へ出ても細々と戦ってすり減っていくだけで、ろくな戦果も上げられないでしょう。逆転を計るなら、装備や人材を蓄えて大きな戦いで一気に戦果を上げる方が効率が良い。そこで華々しく栄達を遂げるのが、一番の近道かも知れませんね」
「まいったな…そこまで読まれてしまったか。流石に不謹慎だと思って黙っていたのに」
「流石の石塚さんも、ボキの目は誤魔化せませんでしたねえ。…今日は、ボキにもその道中、花を飾らせて貰いたくて来たんですよ」

外から大きな声があがる。
思わず視線を向けた二人の目に、外周を囲んで白熱する観覧者と懸命な走りで伯仲する二人の生徒が見えた。

「楽しいですか。ここは」
「そうだな…大変だが、やり甲斐がある。けど未練はないよ。他にやらなければならないことがあるから」
「結構ですね。…ところで、最近新型の開発を進めてまして。ようやく形になったものをお目見えできそうなので、そのテスト部隊の引率と編成を引き受けてくれる人を探しているんですよ」
「それは…」
「人型戦車です」

―人型。
それを聞いて、石塚は無意識に呼吸を統制した。
いつからだろう。
左遷の原因にもなったあの大きな負傷を負って爾来、一度も僕は操縦席に座っていない。
何か言おうと口を開けたが、肝心の言葉が浮かばなかった。
ただ脳裏にフラッシュバックするように、見知った顔が思い浮かんでは消える。
思考は段階を踏まず、あるべき場所を一足飛びに越え、ただ結論だけがすぐ手の届くところにまで迫ってきている。
そんな気分の焦燥と不安、そして確かな高揚を感じた。

「なにぶん、まだまだ機密とも言える段階でして…これ以上のことはボキの口から話すことはできませんが。関われば最後、簡単に軍が手放さなくなるでしょう。無論、すぐにとは言いませんよ。ただボキはあなたの能力や人となりを客観的に判断した上で、お誘いしているわけでして…」
「…できるだけの資料を、数日中に頼みたいんだが。それを見てから改めて細かな話をさせてもらうことにするよ」
「流石委員長だ。話が早くてボキは大助かりです」
「懐かしいな。その呼ばれ方も」
「その気があるなら、またおのずとそう呼ばれるようになるでしょう。それではボキはこの辺で」
「もう行くのか?」
「ええ、今から有用な人材を引っこ抜くのに上の方へ直談判しに行かないといけませんから」
「それはご苦労だな」

互いに含みのある笑顔を作りながら、嶋はよれよれの白衣を正す。
それに倣い、石塚も緩めた襟元を直した。

「こんなところでわざわざ時間を潰してるところを見ると、そちらにも用があるんでしょう?」
「まあね。新しい教官が来るんだ。その出迎えを頼まれていてね」
「この時期にですか?」
「ああ…どうも演習中に負傷したとかで、治るまで大人しくしていればいいものを、復帰するまでの間リハビリも兼ねて赴任するそうだ」
「落ち着きのない人ですね」
「全くだ」

まるで呆れたように肩をすくめて見せる石塚を見て、嶋は楽しげに呟いた。

「成る程どおりで…今日は懐かしい顔をよく見るわけだ」
「何か言ったか?」
「いいえ、それでは」
「ああ。また近いうちに」



外気に対してひんやりとした感触を確かめるように、そっとドアノブをひねる。
足の向くまま、気が付けば屋上にたどり着いていた。
ドアを開けた途端、強い風圧に襲われ手に力を込める。
強い日射しに手をかざしながら、先ほどのグラウンドの反対…校門を見下ろす側へ向かい、低いフェンスにもたれ掛かった。
巡り合わせといえばそうだろう。
それが偶然の産物でも、作為的なものだとしても。あるいは両方だとも言える。
ただ今はその巡り合わせに感謝すべきなのかも知れない。
事は思い描いた軌跡に沿って進み、自然と何度も道が重なる。
運命的なというほど大仰なものではなく、ただそう願うことで自然と結果を引き寄せている。そんな錯覚すら覚えてしまう。
過去の不運を、死神とさえ呼ばれた己の行跡を消してしまうことは出来ないだろう。それは一生僕の背中について回るものだ。
しかし今重なるこの偶然を以てすれば、少しずつでも足を踏み出して前に進むことが出来るかも知れない。

「転機というやつかも知れないな」

誰にともなく呟いたその時、どこか落ち着かない様子で校門をくぐる人影が遠目に見えた。
目の上に手をかざし、糸のような目を更に細める。
まさか迷子になりはしないと思うが、早めに迎えに行った方が良いだろう。
扉へ向かおうと踵を返したものの無意識に二の足を踏み、急にバツが悪くなって眉根をひそめた。

何をしてるんだか。

構える必要はないだろう。いつも通りに、いつかの通りにやればいい。
柄にもなく浮き立つ自分を押し殺すように、意識して息を深く吐いた。
殊更に顔をしかめ口角を下げてはみたもののそれも段々馬鹿らしくなって、頭を掻きながら自嘲気味に笑うとようやく足を踏み出した。



まだ夏も盛りと言うには気が早い時期だというのに…何なんだ、この暑さは。
きっちりと固めた軍服の襟元に無意識に手を伸ばし、それに気付いて首を振る。
周囲はどこか見覚えのある景色だ。それほど記憶に残るものとも変わりもないように思うが、それもそうだろう。
考えてもみれば、自分がこの道を歩いていたのは、たかだか3年ほど前の話だ。

それにしても…と流れる汗を拭う。
滴った汗の玉がコンクリートに落ち、一瞬にして跡が消えた。
地面から立ち上る熱気に足許からいぶされながら、尚のこと負けじと背筋を正して道を歩いた。
たかが二週間、されど二週間ということか…。

人型戦車部隊の練兵を兼ねた演習の最中だった。
コックピットから降りようとして足を滑らせた者を、とっさに受け止めようとしたまではよかったのだが。
それを外した上に当たり所が悪く全治一ヶ月の骨折とは…我ながら、何とも間の抜けた話だった。
それから二週間はずっと病院に押し込められて悶々と過ごした。大きな怪我ではなかったし、骨も綺麗に折れていたらしく術後の治りも快調という話だったはずが、何故か復帰を渋る上官の根回しによって「たまには骨休めも必要だ」と母校へ赴くことになってしまった。
以前にもこんな状況があった気がする。
一年ほど前、今の階級に昇進してすぐの指令が「お前の元上官を連れ戻してこい」というものだった。
その時は「お前が適任だ」の一言で納得していたのだが、迎えに行った元上官の置かれていた状況と己の処遇とが部分的に重なり、今回も同じ言葉で送り出されのだと思うと、どこへ行っても所詮はみ出し者なのかと少々卑屈な疑いを向けたくもなる。
曲がらねば世が渡られぬということも頭では十分に分かっているはずなのだが、ここで折れては今までの自分を否定するのと同義だ、という意固地な性格が最近恨めしくもあった。

「ああ、ここか」

思わず通り過ぎそうになった校門をくぐる。周囲を見回しながら校内に入った。
熱気は相変わらずだが、日射しがない分幾らか涼しく感じる。
連絡は行っているはずなのだが、出迎えどころか人っ子一人見あたらない。そんな気配も感じられなかった。
ここへ来てまたたらい回しか…?
そう思いながら荷物を置き、一息つこうとした折りだった。
此方へ向かって近づいてくる足音。
それを十分に察知しつつも、荷物の中にある書類などを検め始める。
声が掛かるまで気付かないでいようという寸法だ。あまりにも子供じみていて情けない反抗な気もするのだが、どうにも気が立っている。
足音が角を曲がりきり音が鮮明に届くようになった途端、歩調に少しの乱れが起こる。
その違和感を吟味する間もなく、調子を取り戻した気配が喋り出そうと背後で息を詰めた。

「ようこそ。…いや、お帰りかな」

聞き覚えのあるその声が信じられず、不意を打たれて振り返る。

「な…」
「相変わらず見ている方が暑苦しい格好だな……あー、お元気そうで何よりです。永野上級万翼長殿」

白々しい口調で畏まって敬礼の型を取る石塚に動作を返すのも忘れ、永野は声にならない声を上げてわななく指先を突きつけた。

「いっ…石塚さん!ななな何でこんな所に!?」
「一応君の方が階級は上なんだが。…まあ、久々に会って他人行儀なのも何だし、いつも通りやらせてもらおうか」

急すぎる展開に処理が追いつかず、どうにかパニック一歩手前で踏みとどまる。
顔を背けて目一杯深呼吸を繰り返し、ようやく気を落ち着けると、改めて永野は石塚の顔をまじまじと観察した。

「なんだその顔は。まるで人を幽霊みたいに」
「教官に収まっているとは聞いてましたけど、何で本校なんですか?それとも何ですか。僕を死ぬほど驚かせようっていうタチの悪い冗談ですか…?」
「よく見ろ、現実だ。いや、それにしても丁度良いところに来てくれた。これも誰かの思し召しというやつかな」
「は、はあ…なんの話です?」
「永野、また僕と組む気はないか?」
「何をですか?」
「決まってるだろう。部隊だよ。どうも当てにされているらしくてね。近いうちにまた人型をお目に掛かることが出来そうなんだ」
「人型って…」

大丈夫なんですか、と言いかけて言葉を飲み込む永野に、石塚は微かに笑って見せた。

「時間はあったからな。腹は決めたよ。兎にも角にも出世して、少しでも早く戦争を終わらせて、帰るんだろう?」
「そう言うことであれば僕…いや、自分も微力ながら手伝います。今度は、少しでも貴方を支えられるように努力しますから…!」
「何を今更…今までも十分に支えられていたよ」

石塚は苦笑を漏らすと、踵を返しすたすたと歩いていく。
荷物を持った永野が慌てて続くと横へ並んだ。

「どこへ行くんですか!まだ手続きが…」
「そんなものは後だ。どうせ早々にここを出ることになるんだから」
「石塚さん!」
「僕と一緒に来てくれるんだろう?だったら、一緒に直談判に行った方がいい。まずは形式上、上官でもある君を部下にするよう根回しをしないと」

話が展開するままに引きずられている思いの永野だったが、何か言おうとしたものの、結局は言葉にならずに項垂れる。
そんな様子を見ながら、石塚は密かに安堵の息をつき、晴れやかに笑った。

「よろしく頼むよ、相棒」
「…分かりましたよ、隊長」

いずれ迎える苦境にも対抗し得る強さで以て、互いが再び揃ったことを戦の嚆矢とするように。
応える永野も諦めたように笑いながら、突き出された拳を手の平で受け止めた。

桜が散り梅雨が訪れ、夏の始まりを待って後、青嵐が俄に勢いを取り戻そうとしていた。