夏の回顧録

今日もあの人は縁側にいる。
雑草の除去の最中、ふと振り返ると見慣れた彼がいつもの場所に座っていた。
手に持った無地のうちわを斜めにして頭上にかざし、自分で作り出した小さな日陰の下でぼんやりと外を眺めている。
暑いだろうに、何をやっているんだあの人は。

「そんなことするくらいなら、家の中に入ればいいじゃないですかー!」

呼びかけると彼は小さく頷いたが、それ以上動こうとはしなかった。
彼の行動が読めないのはままあることだが、それでも小さな溜め息を漏らす。
あの人は聡明なはずなのに、たまに不可解な行動をする。
自分も日陰が恋しくなってきた。
炎天下で作業に集中しすぎたかもしれない。
こちらもそろそろ切り上げよう。
作業のため曲げていた腰を真っ直ぐに戻し、嬉しくない収穫物である雑草の塊を持ち上げて庭の隅に移動させる。
雑草で構成された小山の処理は後にして、一旦水分を取りに家の中に戻ることにした。
サンダルを脱ぎ、縁側に脚をかける。
近くに座っていた彼がふと首を動かし、こちらを見上げてくる。

「永野も偉くなったもんだな」
「…は?」

今思いついたという風情で、声をかけてきた。

「昔は何があっても縁側から入ろうとはしなかったのに。今じゃ手慣れたもんだ」
「石塚さん、何が言いたいんですか」

昔といっても、初めてこの家に足を踏み入れてからそれほどの時間が経ったわけではない。
それでも、「昔」という表現は間違っていない気がした。
思い込みと気負い、規範と嫉妬も追加して様々な感情の中でがんじがらめになっていた一昔前の自分。
酷い精神状態だった。
この父島に初上陸した時のことは思い出したくもない。
それでも、記憶を蓄えた脳は自然にあの時の思いや映像を展開させる。



初めてこの家に辿り着いた時も、彼は縁側にいた。
あの時はほとんど眼中に入っていなかったが、そこには嶋さんもいて、二人で将棋を指していた。
自分を見た瞬間も、彼は取り乱さなかった。
目が合うやいなや、嶋さんに何事か呟き、彼をその場から立ち去らせた。
そしてあろうことか、そのまま自分を放置して将棋盤に目線を戻したのだ。
全否定。あからさまな、拒絶。
…いや、こんなものは想定の範囲内だったはずじゃないか。
落ち着けと諭す内側からの声を掻き消すくらいに、心臓が早鐘を打っていた。
胸に手を当て、目を閉じて深呼吸をしようとすると、目に違和感を覚えた。
乾ききった眼球が痛みを伴ったのだ。
瞬きを忘れるほどに、自分は戸惑っていたのだろうか。
彼の襟元を掴んで揺さぶりたくなる衝動をどうにか抑えて、縁側を通り過ぎ玄関へ向かった。
正攻法でいくことしか、考えられなかった。
努めて冷静に戸を叩き、連れ戻す意志を大声で伝えて、待つ。待つ。待つ。
耳をすませたが、縁側からは何の物音もしなかった。
これが、答えだった。
口内から、ぎし、という音がした。
あの時の歯軋りの響きを、今でも耳が覚えている。
握りこんだ拳の痛みも共に。
どこまでもこちら見下げたこの態度。
今から思えば、これらは「何も見なかったことにしておいてやるから、お前も早く帰れ」という意思表示だったことがわかるが、当時はそんな思惑を汲む余裕なんてものはなかった。
彼の行動の全てが、自分を個人的に非難しているとしか思えなかった。
それでも、自分は自分の役目を全うするしかない。
揺らぐな。
連れ戻す、連れ戻す、連れ戻す。それだけだ。
自分は通告し、あの人は求めに応じる。
だったそれだけの話だ。私情も事情も関係ない。
自分が持ってきたものは「命令」なのだ。
相手が誰であろうと、従わざるを得ないものが「命令」だ。
守られるべきはルールだ。それは彼も、例外ではない。
「時間を改めて、また来ます!」と沈黙を守る戸に向かって怒鳴りつけ、来た道を辿りなおした。



「こんにちはー。今日も暑いわねぇ。お兄ちゃんも気をつけなさいねぇ」
「…こんにちは。ええ、水分は十分に摂っています」

持参した水筒を軽く持ち上げて見せてから無難な返答をすると、声をかけてきた見知らぬ年配の女性は安心したように微笑んで歩き去って行った。
何をするあてもなく木陰で休んでいただけなのに、まさか島民から話しかけられるとは思っていなかった。
軍人に向かって、「気をつけなさい」とは一体何なのだろう。
まったく、平和ボケだらけの島だ。
幻獣がいつ攻めてきてもおかしくない状況で、この穏やかさは何なんだ。
こんな島に平然と住み着いているあの人の気が知れない。
あの人がこんな所で腐っている道理はない。

『こんなちっぽけな島に、本当にあの人がいるのだろうか』

丸一日を費やして辿り着いたこの島に降り立った瞬間、抱いた感想はこれのみだった。
だがそれは杞憂で、実際にあの人はいた。
けれど結果がこれでは、居てくれない方がましだったとすら思える。

「諦める気は、ない」

小さく漏れ出た独り言は、自分の想像以上に弱々しく、乾いていた。
何を、諦めないのだろう。
自分の中でおぼろげに揺らぐ疑問があった。
…そうだ、命令だ。命令の達成だ。そうに決まっている。
気をしっかり持っていたつもりだが、日暮れまでどうやって時間を潰していたのかは覚えていない。
ただひたすらに、自分に向けられたあの沈黙への憎らしさだけが胸中で渦巻いていた。
何一つ気持ちの整理がつかないまま夜まで待ち、家に赴き、そして、あの不条理な賭けに乗ってしまったのだ。
全く、我ながら不甲斐ない。
この島に着いてからというもの、結果的には全て「彼」の意思のままに流されてしまった気がする。
そして何よりも悔しいのは、自分がその流れに逆らいたいとも思えないことだ。



「郷に入っては郷に従え、という言葉があるでしょう。自分は先人の言葉を遵守しているだけです。この家では基本的に出入りは縁側からするものみたいですから」

自分でも無理矢理だと思う理屈を並べ立て、室内に脚を踏み入れた。
どんな反論をしてくるかと構え、ちらりと彼を見たが、相手はまだ外に目線を向けていた。

「石塚さん、自分から話しかけておいて返事もしないとはどういうことですか」
「考えてたんだよ。なあ永野、この家のルールって他に何があるんだい?肝心の家主には、残念ながらわからなくてね」

また相手のペースだ。
彼がどうでもいい疑問を投げかけてくる時、自分が主導権を握れた試しがない。
それでも毎回、自分は乗ってしまうのだ。

「…初めて来た客は無視する、ってことですかね」

含みを持たせて告げると、「そうくるとは思わなかった」とでも言うような気配がした。
だが次の瞬間には口角をほんの少し上げて、楽しそうな口調で続ける。
まったくこの人は、悪びれもしない。

「そうだな。でもその客は、家主の都合も考えずに夜にまた来るんだ」
「そうでしたね。そして、家主は頭がどうかしてるとしか思えない賭けを持ち出してくるんですよ」
「でも、何だかんだ言っても客はその賭けに乗ってくれるんだよな?」

背を向けたまま、彼は言葉だけをこちらに向けてきた。
負けた、と咄嗟に思ってしまった。
将棋で言うなら王手をかけられた状態。
結局、賭けなんてものは口車に乗せられてしまったものの負けなのだ。
だったら彼のように、のらりくらりとはぐらかすしかない。

「…麦茶、飲みますか?」
「うん、貰おうかな」

ガラスのコップを二つ用意して、作っておいた麦茶を注ぐ。
冷えた茶色の液体でコップが満たされるのを見るともなしに見る。
麦茶を手渡してから、彼と同じように縁側に座り込んだ。
小休止を挟んだらそろそろ雑草の塊を片付けに行かなくては。

「そういえばさ、永野」
「はい?」
「君が初めてこの家に来たときに出したのも、麦茶だったよな」
「…そんなこともありましたね」
「これもこの家のルールになるな。騒がしい客には、とりあえず麦茶を振舞え」

先までの話題を蒸し返しておいて、彼は素知らぬ顔で麦茶を口に含んだ。
はぐらかしきれていなかったということか。
それでもまだ、反論の余地はあった。

「そもそもこの家には、麦茶か水しかないでしょう」
「そうだな」

はは、と彼が笑った。
今日もこの家の縁側には、彼と自分がいる。