掌の未来

午後九時過ぎ、縁側に立って夜空を見上げた。
いつも通りの晴れた夜だが、熱帯夜というわけではなく、時折思い出したように涼しい風が吹いてくる。
出歩くにはうってつけの気候だ。

「石塚さん、麦茶でも飲みますか?」

夕飯の片づけを手際よく終えた永野が声をかけてきた。
軽く首を横に振って、それに答える。

「いや、いい。それよりも、ちょっと観測所に行ってくるよ」
「観測所、ですか?なんでまたそんな所に」
「ただの散歩だよ。深い意味はないさ」

納得がいかないのか、永野は訝しむような表情を解こうとしない。
確かにそうだ。
永野がこの家に来てからというもの、夜に意味もなく外出するようなことはなかった。
せいぜいが縁側で夕涼みをする程度だ。
なんだ突然、と思われるのは仕方のないことだろう。
しかし自分も大の男であり、夜に出かけるのに必ず永野の了承を得る必要もない。
続く返事がどうであれさっさと出発してしまおうと思ったが、永野はあっさりとひとつ頷いた。

「はい、すぐに準備します」
「え?」
「はい?」

思わず聞き返してしまい、何の収穫もない間の抜けたやりとりを永野と交わした。

「別に準備もなにも…僕はこのまま行くつもりだけど」
「少しだけ待っていてください。すぐ終わります」

何をおっぱじめるのだろうと面白半分で眺めていると、永野は先の宣言どおりに「準備」をはじめた。
火の元の確認をして、家中の電気を消すと、玄関に行って靴を履いてから外を回って縁側に戻ってきて、「お待たせしました」といつもの調子で言った。
一人で行って、すぐに帰ってくるつもりだったのだが、準備万端で臨んで来た永野に今更そんなことが言えるはずもない。
「一緒に行こう」といちいち言葉で伝えなくとも、永野の中では僕に同行することが当たり前となっているのだろう。
自然にそう捉えてくれる存在がいることに、思わず笑みが零れた。
それを見た永野は、どこかおかしい所がありましたか?と首を傾げる。
その素直な反応も、微笑ましさに拍車をかけるのだった。


いい夜だな、そうですね、などという社交辞令的な感想を述べた後は、殆ど無言でゆっくりと山の斜面を登っていく。
なぜ行くのかという問いが投げ掛けられることはなかった。
沈黙がひたすらに心地よく感じる。

「永野」
「なんですか?」

呼びかければ、機敏に反応する。
いつまでもこうして、永野と歩いていけたらと思う。
このご時世ではあまりにも楽観的な空想だが、願うのは個人の自由だ。
そして僕らは学兵であり、それを実現させる力も、一般市民よりは備えている。
自分の願いは自分で持ち、自分で叶える。

「十年後も、こうして一緒に山登りが出来るといいな」

そんな希望的観測が、恥ずかしげもなく口から零れ落ちた。
頭の中で推敲せず、思ったままのことを言うのは意外と気持ちの良いものだった。
永野の反応を確かめず、言葉を続ける。
仰ぎ見た空では、月が冴え冴えとした光を放っていた。

「こんな所で言うのもなんだけど。末永くよろしく、永野」
「また、そんなことを、そうやって、軽々しく、口に…」

自分としては、いつものように簡素な返事を貰えればそれで十分だったのだが、永野は深く受け止め過ぎたらしい。
こちらへの抗議を垂れ流しながら、前後不覚になったように口調も歩調もあやふやなものに変化した。
俯いて歩いているからか、その軌道が少しずつ右に逸れていっている。

「永野、ここは道が細くなってるからあんまり端に行くと落ちるぞ」

危ないからこっちに、と声をかけて手を伸ばした時にはもう遅かった。
永野の足は地面を捉えることが出来ず、落下の一途を辿りはじめる。
何も考えず、考えられず、愚直にも反射神経だけを頼りに一歩を踏み出す。
なんとか手に触れたはいいが、こちらの踏ん張りがきかず、永野に引っ張られて足がそのまま宙に浮くのを感じる。
こうなってはもうどうすることもできない。
衝撃は間近に迫っている。
落ちる覚悟を固めて、とにかく効率よく受身を取ることに最善を尽くす。
繋いだ手だけはなんとしても離すまいと、より強く力を込めた後で背中に衝撃を感じた。

「いっ、石塚さん…!」

苦痛に呻くのも数秒、永野が真っ先にこちらの名前を呼んで、素早く身を起こす気配がした。
永野の方が先に落ちたとはいっても、数秒程度の差だろうに、自分よりもよっぽど立ち上がるのが早い。

「石塚さん、大丈夫ですか!?石塚さん!」
「…大丈夫、平気だ」

永野は機械で言うならオーバーヒート、という表現がよく似合うほどの狼狽ぶりだった。
数回むせて、それから息を整えた。自分もゆっくりと起き上がる。
随分と様々な経験を積んで来たとは思うが、男二人がこんなに間抜けな理由で崖に落ちるなんて可能性は考えたことがなかった。
人生は小説よりも奇なりとはよく言ったものだと思う。
真剣にこの状況を捉えようとすればするほど、なんだか笑いがこみ上げてくる。

「なんで笑ってるんですか、この非常事態に!」
「いや、だってあまりにも滑稽じゃないか。戦闘訓練中でもないのに、現役の兵士が勝手に危機的状況に陥ってるだなんて」

笑い種だよ、と言い切って一頻り笑ったら落ち着いてきた。
横にいる永野は笑わずに、顔を背けている。
唇を噛み締め、悲壮そのものの顔つきをしていた。

「…不覚です」
「だろうね」

永野も落ち着いてきたようだ。落ち込んでいる、という表現の方が近いかもしれないが。
お互いに大きな怪我もなく、とりあえずその点に安心したところで、自分の置かれた状況を把握するために辺りを見回した。
月明かりと星のある夜で助かった。懐中電灯なしでも夜に目が慣れれば見えてくる。
自分たちは山から落ちた後、ちょうどよくせり出した岩棚に落ちたらしい。
畳でいうと四畳半ほどの空間だ。
広いとはいえないこの岩棚の上に落ちたのは、僥倖以外の何物でもないだろう。
自分だけはなんとしても助かるという本土時代の「死神」のジンクスを、ふと思い出す。
それでもまた、永野は生き残ってくれた。
俺の「死神」も永野には頭が上がらないのかもしれない。
どういう理屈かは知らないが、永野を助けてくれるのなら死神でも女神でも何でも良かった。

「じゃあ、冷静になって考えるとしようか。とりあえずこれは登れないよな、永野?」
「そう、ですね。難しいかもしれません」

二人並んで立ち、視線を上にあげた。
道具もなしに素手で登るには、確かに永野の言う通り難しい高さだった。

「出撃がかかったらどうしましょうか?」
「さて。死に物狂いで登るか落ちるか、今から考えておくか」

軽口を叩いたつもりなのだが、永野は一つ頷くと上下を見比べて、検分をはじめた。
「いざとなったら落ちましょう」なんて言われたらどうしたもんかな、と考えながら、うろうろしている永野をぼんやりと眺めた。

「…自分の、不注意で。本当にすみません、石塚さん」
「今更どう悔やんでもしょうがないよ。助けが来るあてもあるから、そう心配しなくていい」
「え?」

何を言ってるんだとばかりに首を傾げる永野に、説明する。

「僕はともかく、授業に必ず出席する永野が登校してこなければ皆は不審に思うだろう?何かあったんだと思って、きっと探しに来てくれるさ」
「しかし、こんな所に居るとは思わないでしょう」
「それも大丈夫だ。今日の昼、学校で嶋に話しておいたんだよ。観測所を見てくるって」

自分と永野が揃って欠席していることが不審がられないわけがない。
家に確認の電話を入れても出なかったら、僕らが観測所に向かった可能性について、嶋が皆に言及してくれるだろう。
嶋にはそんな信頼感があった。そして彼は、その信頼に確実に応えてくれる人物だと信じている。
僕らは朝までここで待機し、人の声が聞こえたら叫べばいい。
そこから先はおそらくとんとん拍子に話が進む。
順序立てた説明を終える頃には、永野は腑に落ちないといった表情になっていた。

「自分には夜になってから突然言い出したのに、嶋さんには話を通してあったんですか」
「いや、話したといっても軽くだよ。世間話程度のものだ」

昼食の際に食堂で一緒になり、話していなければ、発見されるまで更に時間がかかっていただろう。
偶然に感謝しておかなければ。

「そう、ですか」
「ああ」

永野が押し黙り、気まずい沈黙が流れた。
何故そこまで拘るのだろうと考えるよりも先に、永野が口を開く。

「でも、結果的に功を奏しましたね」
「ああ、腰を据えて待とう」

行動の指針が決まってからは、互いに腹を決めて待ちの姿勢に専念した。
沈黙に浸り、それぞれの思考に身を委ねながらも、思い出したように時折、ぽつりぽつりと会話を交わした。

「僕は一つの教訓を得たよ」

永野が耳を傾けているのを感じる。

「今後は、危険な場所では口説かないことにする」
「あぁ、えー、こ、こんなことになるなら毛布の一枚でも持ってくるんでしたね。夜は冷えますよ」

あからさまな話題の逸らし方をしてきたが、それに追随していくことにする。

「でも一枚しか持ってきてなかったら、身を寄せ合って使うことになってただろうな」
「なっ」
「おい、また落ちないでくれよ」

ここから落ちたら、今度こそただでは済まないだろう。
いくらなんでも、「死神」はそこまで万能ではない。
寧ろ、永野が命を落とすのを今か今かと待っているかもしれないのだ。
手をひくと、永野は大人しく傍に寄って来て座りなおした。

「…石塚さん、ここをどこだと思ってるんですか?」
「崖の上だろ?」

今更状況確認か、と返すと永野は大げさな溜め息をついた。



時計がないから確かめようもないが、日付が変わる頃、僕はそろそろ寝ておいた方が良いと提案した。
こんな場所で二人して熟睡するなどという蛮勇はなかったので、交代制で眠ることにする。
永野は今回の事件の原因となった自分が寝ずの番をすると言って聞かなかったのだが、交渉の末に「ジャンケンで負けた方が先に寝るというのはどうだ」と持ちかけるとそれに乗ってきたので、勝負をした。
当たり前のように僕が勝った。
永野は、最初にグーを出す癖をどうにかした方がいいと思う。
戦闘をこなす分には問題ないが、日常生活では不便なこともままあるだろうに。

「じゃあ、おやすみ」
「ちゃんと起こしてくださいよ!」

納得がいかないという顔をしながらも、大人しく隣に座ってきた。
隣といってもあまりにも近い。拳一つ分ほどの隙間しかない。
狭いスペースではあるが、こんなに真横で眠る必要もないのではないか。
当の永野は座ったまま眠ることに決めたらしく、曲げた左足の膝の上に両の手を載せ、もう片方の足はそのまま投げ出すという姿勢をとった。
こちらにもたれかかってくることはなく、そのまま俯いて眠る体制に入る。
横にいる人間が心ひそかに驚いているとも知らず、呑気なものだ。
よく眠れるようにと頭を軽く撫でてやると、すぐに顔を上げて応戦してきた。

「なんですか、幼子みたいに扱って!」

予想通りの反応に、自分が喉を鳴らして笑っていることに気付いた。

「…また、そうやって笑って。まったく」
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか、永野。別に悪意があってやってるわけじゃないんだから」
「何なら役割を交代しますか?石塚さんが眠っている間、自分はしっかりと起きています」
「そう言うなよ。ほら、もう何もしないからゆっくり休むといい」

両手を軽く上げて降参の姿勢を見せると、永野は渋々といった様子で口を噤んだ。
あれだけ怒っておきながら、距離をとることもなく先ほどと同じ位置で眠りに落ちようとしている永野を見て、また笑いそうになった。
いつからこんな些細なことで心を浮つかせるようになったんだろう、と思いながらも、何の支障もないので良しとすることにした。
永野が黙ってしばらくしてから彼の口元にそっと耳を寄せると、微かな寝息が聞こえてきた。
さきほどの言い合いから、恐らく十分と経っていない。
実に寝つきがいい。
永野は自分の特技の欄に「どこでもすぐに眠れる」という項目を加えてもいいだろう。
なんだか微笑ましくなる。
さて、ここからは、自分一人だけの時間だ。
夜明けが来て、それから学校が始まり、クラスメイトが駆けつけてくれるまで時間は掃いて捨てるほどある。
起こせとは言われたが、永野が自主的に目覚めない限り、自分が夜通しで番をするつもりだった。
戦闘時ならともかく、今は無理に寝ておく必要もない。
永野の特技が早寝ならば、こちらの特技は徹夜だ。
時間を少しでも有意義に使おうと、残してきた雑務をまとめ、頭の中で組み立てて処理していく。
どこまでこなしたか、メモでもしておきたいところだが贅沢は言っていられない。
終わった後はとりとめもなく思いつくままに過去の様々な出来事をほじくり返し、頭の中で次々と再生させた。
自分の人生は、贔屓目で見ても幸福な思い出よりは陰惨な記憶の方が数が勝っている。
無常を感じながらも、時折永野を横目で見て、意識の束を掻き集めた。
これまではともかく、これからは。
「きっと、ここから先は」と、希望を持てる自分がいることに、不思議と安心するのだった。

「助けがきたよ、永野」

順調に現実のドミノ倒しが遂行されたようで、予定通りに皆が助けに来てくれた。
やれやれと腰を上げて永野に声をかけると、それを合図にぱちりと目を覚ました永野はすぐに状況を把握し、朝からいきなり噛み付いてきた。

「なんで、なんで起こしてくれなかったんですか!…あぁ、しかし、自分も自分だ。なんだってこんな日に限っていつもより深く眠ってしまったんだ…!」

自問自答し、苦悩している永野を放っておいて上から降ろされたロープを見やると、地上からはクラスメイト達の声がした。
徹夜明けの自分と、寝起きの永野がこのロープを掴むだけの気力があるのか。
首を鳴らしてから姿勢を整え、気合を入れなおした。

「よし、石塚も永野も元気そうだな。良いことだ!さぁ、お前ら授業に戻るぞー!」

地上に引っ張り上げられてから数分もしないうちに、男先生はそう言い放った。
えー、という非難の声があちこちで上がるが、男先生はそんなことは気にせず、先頭に立って先に進んで行く。
しかし皆もそれは分かっていたらしく、それぞれに愚痴を零しながらその後に続いた。
それにしても、まさかクラスメイトが総動員でやってくるとは思わなかった。
永野と二人して礼を言うと、皆は気にしていないとばかりにそれぞれの微笑みで応えてくれた。
なかでも嶋には頭が上がらない。後で特に礼を言っておかなければと思う。
しかし、助けられておいてこんなことを考えるのも悪いが、駆けつけた生徒の大多数がちょっとしたピクニック気分だろう。
授業が潰れることを喜んでいる人物が大半だ。賭けてもいい。
それでも、こうして笑顔で出迎えてくれた気持ちのいい仲間達に恵まれている奇跡を思った。

「信頼できる仲間がいるというのは、良いことですね」
「そうだな」

学校へと戻るクラスメイト達の背中を見つめながら、最後尾を永野と歩く。
無防備に降ろされたその手を、驚かれないようにそっと握った。
永野はすぐに反応してこちらを見てきたが、慣れたように僕の手を受け入れてそのまま歩き出した。
どちらが言い出したわけでもないが、互いに歩調が緩やかなものになる。

「なあ、永野」
「はい?」
「十年後も一緒に、山を登ってくれるか?」
「ええ、望むところです」

永野が少しだけ手に力を込めてきたので、それ以上に強く握り返した。
この手の温かさに、いちいちこんな口約束をしなくても、僕らは共に居られるのだろうな、という思いを抱いた。
これが都合の良い思い込みではなく、現実となるように。何があってもこの手を取り落とさないように。
ただそれだけを願っていれば、きっと。
十年後の未来の可能性は、いつだってこの手の中にある。

「はは。ありがとう。………なあ、その時は落ちないようにしてくれよ?」
「…も、もう落ちません!石塚さんこそ、十年後の山登りの時は心臓に悪いことをいきなり言わないでくださいよ!」
「はいはい。分かったよ、永野」
「適当にあしらわないで下さい!」

永野の大声に前を行く皆が振り返らないかとひやひやしながらも、僕は繋いだ手を解こうとはしなかった。
そんな心配をよそに、永野の怒声など聞き慣れているのか、こちらを見るクラスメイトはいない。
ただし、例外が一人だけ。
数メートル先を行く集団の最後尾についていた浅黒い肌の彼が、一瞬だけ足を止めた気がした。
だが、こちらを一瞥することもなくそのまま歩いていく。
目を細めてその背中を見やってから、僕はまだ小言を連ねている永野に視線を戻して、彼の相手に専念することにした。

「ほら永野、いつまでも怒ってると皆に置いてかれるぞ」
「誰が怒らせたんですか!」

強く握った手は離さないまま、僕と永野はしばらく歓談を楽しむのだった。