上昇思考

永野と二人して教室へ足を踏み入れた途端、襲撃された。

「鈍器でっ、ゴン!」
「………!」

机の上に乗ったえりすが、自分の頭部目掛けて鈍器を振り下ろしてきた。
スピードの無い一撃だったので容易く避けることが出来たが、意図がさっぱり掴めない。

「今のは何だ、えりす?」
「おはよっ、委員長!えへへ、あのね!」

えりすが両手で握っていたのはトンカチだった。当てるつもりはないのだろうが、万が一直撃していればただでは済まなかっただろう。
驚いて目を丸くしたが、彼女は悪びれもせずに身を乗り出して話を始めた。

「お笑いマンガ大将って雑誌で連載してる、すっごい面白いマンガがあるんだよ!
松尾に借りたんだけどね、『鈍器でゴン!』ってタイトルなの!あのね、何かあるとすぐに主人公の男の子が…」

そこまで聞けば十分だった。
つまり、その物騒なタイトルの漫画に出てくる遊びをしたかったのだろう。
しかし、いくらなんでも朝からこれはやりすぎだ。
内容の説明に入ろうとするえりすの口に人差し指を当てて、黙らせた。
びっくりしたように大きな目を瞬かせてこちらを見ている。そのまま膝を曲げて高さを調節し、しっかりと目を合わせてから語りかける。

「えりす、君は軽い気持ちでしたのかもしれないけど、一歩間違えれば大怪我をする可能性だってあったんだ。もうこんなことはしちゃいけない」

えりすの口に当てた指を離そうとすると、背後から別の気配を感じた。
後ろを見なくても、犯人は分かる。

「松尾!今の話を聞いてなかったのか?」

一喝してから振り返ると、松尾も渋々と手にしていた物差しを背中に回した。
不貞腐れたように唇を尖らせている。

「うー…。わーかったよ!…委員長は冗談が通じないなあ」
「松尾」
「あー、ごめんなさい。もうしませんっ」
「よし」

一つ頷くと、松尾は逃げるように離れて行った。
事態を静観していたらしい田島に何か話しかけられている。後は彼に任せておけばいいだろう。
えりすの方に向き直ると、真っ直ぐな瞳で迎えられた。

「怪我させるようなつもりはなかったんだけど…ごめんね、委員長」
「いや、いいんだ。もうこんなことは遊びでもしないように。じゃ、行っていいよ」
「うん!」

笑顔を残してから、えりすも田島と松尾の方へ向かって行った。
それまで黙っていた永野が、口を開く。

「甘いですね、石塚さん。階級は貴方の方が上なんですから、手を上げたあの二人を処罰する事だって出来るのに」

言葉こそ辛辣だが、永野の表情は柔らかいものだった。こちらも苦笑で返す。

「まあ、ね。相手が僕じゃなくて面倒臭いお偉方だったら、えりすも松尾も大変なことになってただろうな」
「考えたくないですね」
「はは。いや、いくらあの二人でもクラスメイト以外にあんな事はしないだろうけど。……目上の人間に処罰されるかも知れない、という理由で上下関係を幼い子に叩き込む。こんな状況が一番どうかしてるな」
「…ええ」

再び騒ぎ始めた松尾とその周囲から切り離されたかのように、数秒の沈黙が流れた。
そろそろ席に着こうかとも思ったが、もう暫くの間は永野と教室の喧騒を傍観していたかった。
入り口に突っ立ったままで、永野が会話を再開する。

「そういや僕は、子どもの時分からあんなに無邪気に遊んだことはなかったかもしれません」
「永野は昔から堅物だったんだな」

子ども時代の永野を想像するのは容易い。初めて出会った頃の折り目正しい永野を、そのまま小さくすればいいのだ。
敬語を使いこなし、きびきび歩く幼い永野が頭に浮かぶ。それは自分にとってはなんとも心暖まる想像だった。

「ええ、ええ、そうですよ。僕は昔から融通も利かなければ愛想もない堅物でしたよ」
「なんだ、拗ねてるのか?別に変な意味で言ったんじゃないのに。…ああ、じゃあ永野ならいいよ。家に帰ってから鈍器でゴンでもなんでもして、童心に返ればいいよ」
「なっ…!そんな見当違いの気遣いは無用です。あんなのは年端も行かぬ子どものすることです!」
「永野、そんなにむきにならなくても」
「なってません」

吐き捨てるように言うと、永野はさっさと座席に着いてしまった。
怒らせるつもりは無かったんだけど、と言っても後の祭りである。HRまでの時間を永野の懐柔に費やすことにことにした。




「ごちそうさまでした」

空になった弁当箱を前に、両手を合わせて呟いた。
社会的慣習に則ったわけでも、神への祈りというわけでもない。この弁当の作者、つまり永野へ向けての感謝の言葉だ。
永野は所要があると言って先生の所へ行ってしまったので、一人で昼食を摂った。
なのでこの独り言には何の意味も無いのだが…まあ気持ちの問題、だ。
昼食も終わったし、さてこれからどうしようかと思っていると、いきなり頭上から何かが降ってきた。
さほど熱くはないが、冷たくもない、つまりぬるま湯が背中と額をつたって行くのがわかる。
反射的に振り返るとそこには大塚が居た。何も乗っていないトレイを両手に持ったまま立ち尽くしている。
床には丼とコップが転げ落ちていた。どうやら降ってきたのはうどんの汁のようだ。

「すっ…すまん、大丈夫か?」
「これが大丈夫に見えるのか?」
「…見えん。すまない」

前髪から垂れてくるうどんの汁が不愉快で、眉間に皺が寄るのを押さえられなかった。
ぶちまけたのが食べ終えたうどんであったことは不幸中の幸いだろうか。出来立ての物を頭から被っていたら大火傷をしていただろう。

「委員長、良かったらこれを使ってください」
「ああ、ありがとう田上さん」

一部始終を見ていた田上が差し出してくれた布巾で、顔と頭を軽く拭いていく。同じく田上から布巾を受け取った大塚は床の後始末を始めていた。効率の良いその動作を横目で眺める。
その視線を察したのか、大塚が顔を上げてもう一度謝ってきた。返事をするのも億劫で適当に頷き返す。
手早く掃除を済ませると、またこちらに頭を下げてから大塚はその場を立ち去った。
水場に寄って顔でも洗いに行こうかと考えていると、永野が遅れて食堂に入ってきた。
こちらに気付くと、驚いて小走りでやってきた。うどんを頭から被ったんだと手短に説明した。
気の毒そうにこちらを見て、頭についていたらしいネギの切れ端をつまみ上げてゴミ箱に捨ててから、またこちらに戻ってきた。

「ありがとう、永野」
「いえ。…火傷などしてませんか?」
「平気だ。ただの災難だよ。…どうも、朝のあの鈍器でゴンとかいうやつをやられてから、調子が悪い」
「うーん………そこから始まった不運の連鎖なら、もう一回あれをされたら、もしかしたら…」
「連鎖が断ち切られる、か?永野にしちゃ非科学的な発想だな」
「…ですね」

肩代わり出来ればいいんですがという永野の言葉に、気持ちだけ受け取っておくよ、と返した。
互いにやりきれない苦笑いを浮かべた。




…昼から夜にかけても、痛みを伴う小さな不幸は続いた。
思い出したくもない不快な記憶なので詳細は省くが、腕をドアに挟まれる、スパナが足に落ちてくる、足の小指を角にぶつける、など枚挙に遑が無い。
学兵として、どのような痛みも受ける覚悟で生きているが、それとこれとは別の問題だ。
自分の不注意なのか、ただ単にツイていないのか、微妙なラインの小規模な事件ばかりだ。
こんな日は起きていても碌なことが無い。さっさと次の日にしてしまおう。そう割り切って早々に床に就いた。




泥に沈み込むような眠りから浮上して、目を覚ました。窓から見える外は今日も快晴だ。
引き摺るような痛みは残っていないものの、昨日のことを思い出すと憂鬱になる。
また昨日の焼き直しのような一日になるのだとしたら、起き上がりたくもない。
目を閉じてじっとしていると、永野が近づいてくる気配を背中で感じた。
そろそろ起きないと不味いか、と思っていると、

「鈍器、でっ………………はぁ」

威勢が良かったのは初めの一声のみで、そこからどんどん萎えていき、最後はただの溜め息になった。
何かを諦めたような、恥ずかしさをごまかすような溜め息。
例の、鈍器でゴン。永野がやりたかったことを把握して、思わず笑いそうになったがなんとか押さえ込んだ。
代わりにわざと冷めた声を出す。

「鈍器で、何?」
「うわぁああ!なっ、おっ、起きてたんならそう言ってくださいよ!」
「あんなのは年端も行かぬ子どものすることです、って言ってなかったっけ?」
「朝ごはん!出来てますから!」

耳を真っ赤にしている所を見ると、永野にとって「鈍器でゴン」は相当恥ずかしい事だったようだ。
肩を怒らせて、逃げるように足早に台所へと消えていく背中を見つめる。
その手には台所で使っているおたまが握り締められていた。あれで殴るつもりだったのだろうか。

「ははっ…」

その微笑ましさに堪えきれず、笑い声が漏れた。
朝から笑えるなんて、一日の始まり方としては最上ではないだろうか。

「石塚さん!早く来ないと味噌汁が冷めます!」
「はいはい。すぐ行くよ、永野!」