八月はいじわるな月

「珍しいね。終わった後も永野が起きてるなんて」

先刻まであれ程の運動をしていたにもかかわらず、石塚はいけしゃしゃあと微笑んでいた。
終わった…というのは…まあ、夜の営みの事である。
そこら辺は察していただきたい。と永野は誰にともなく心中で言い訳していた。
流石にもう息は落ち着いてきたが、行為の名残である微睡みの靄はまだ永野の頭を支配している。
まるで女のように石塚の腕に頭を乗せ、耳元で囁かれているというこの状態には自分でも嫌気が差すが、ここから逃げる気力など永野には残されていなかった。
まさかもそれも計算に入れて激しく動いていたんじゃないかと邪推してしまう。

「何で睨んでるんだい、永野?」

あまりにも呑気な調子に目眩がした。
怠惰に任せてこのまま眠ってしまおうかと薄く瞼を閉じると、それを咎めるかのように石塚が口を開いた。

「大分、焼けたね」
「………?」

ぼやけた意識に響いた言葉の消化には時間がかかり、深く考えないまま首を傾げると石塚は雛鳥を見つめる飼い主のような眼差しを向けた後、
布団に投げ出されたままの永野の片腕を取り、見せ付けるように翳した。

「肌。ほら、俺と比べるとこんなに」

違う、と呟いた石塚がなんとなく悔しそうに見えて、永野は少し笑ってしまった。
しばらく一緒に暮らしてみて分かったのだが、彼は日を浴びても赤くなるだけで終わってしまうタイプらしい。
健康を体現したような永野の小麦色の肌と比べると、切ないくらい石塚の肌は青白く見えた。月光のせいだろうか?
そういえば今日の月はどんな形をしているのだろうかと思考を巡らせた所で、ひんやりとしたものが永野の下半身に触れた。

「…!?」

全身を硬直させた永野が恐る恐る夏蒲団の底を覗くと、石塚の手が半ズボンをたくしあげて脚のかなり上の方に添えられていた。
永野と共に視線を下げていた石塚は、普段は衣服に隠れて晒される事のない太ももをざっと眺めてから、何事もなかったかのように手を戻した。
突然の行動に永野が面食らっていると、石塚は悪びれもせず微笑んで口を開く。

「日に焼けてない部分は永野も俺と同じくらい白いんだな。なんか安心した。置いてかれたような気がしたんだ」

…子供ですか貴方は。確認するならもっと別の場所でいいでしょうに。と、本調子の自分であれば千の言葉で罵っていただろう。
しかし、石塚がこんな風に無防備に微笑んで、意味のない確認を取るのは珍しい。
もしかしたら目の前の人物も自分と同じくらい疲弊しているのかもしれない。
眠りの淵に二人で腰掛けているようなこの状況では、会話も虚ろになろうというものだ。
ふと、先程見逃した月が気になって、窓の外へ視線を向けた。

「綺麗な、月だ…」

眠たさで声を発することも億劫だったはずなのに、自然とその言葉は口から零れ落ちて。
それは、満月でもなければ三日月でもない、中途半端に丸い月であったが、その冴え冴えとした月光は永野の心を打った。
背後で石塚も感嘆の溜息を漏らす。が、次の瞬間には耳元に口を寄せてきて、意地悪く囁いた。

「やっと喋ったと思ったら月が綺麗、と。これは嫉妬していいって事か?」
「いっ、いや、だって、あんまりにも綺麗、だったもの…ですから…」

時間が経てば経つほど増してゆく強烈な睡魔と格闘しながら、上手く回らない舌を懸命に動かしてなんとか日本語を発した。
今にも千切れそうな意識の糸を最後の一線で保ち、永野は石塚に嘆願する。

「もう、寝ませんか、石塚さん…」
「これから寝たってせいぜい三時間くらいしか眠れないぞ。それなら朝日でも一緒に見ないか?」
「………」

何故だろう。今夜の石塚はやけに子供染みている。
月の光は人を狂わせるというが、あながち迷信でもないのかもしれないなどと思う。
このままでは自分も石塚もどんな失言をするかわからない。そもそも、自分には会話をする機能が殆ど脳に残されていない。
腕から伝わってくる温もりにまだ未練は残るが、自分達には明日が待っているのだ。
気持ちを切り替えて、永野は本格的に石塚を寝かしつける事にした。

「ほら、我侭言わないで、下さい。おやすみなさい、石塚、さん…」

まるで母親が子供をあやすように、眠りへと誘うように緩やかなリズムで永野は石塚の背を数度、軽く叩いて落ち着かせる。
せめて石塚が眠るまでそうしていたかったのだが、その寝息を確認する前に手が動かなくなり、永野はそのまま力尽きるように瞳を閉じた。
それを確認すると、石塚は自分の背中に回され動かなくなった永野の手を取り、優しげな手つきで布団の中に入れてやる。
目と鼻の先にある永野の寝顔にしばらく心を奪われてから、石塚は酷く申し訳なさそうに目を細めた。

「無理をさせて済まなかった、永野」

幸せな時間を少しでも長く味わおうと、永野を付き合わせてしまった自己嫌悪に苦笑したのも束の間。
石塚は永野の頭を自分の腕に乗せなおすと、愛しげにその髪を梳いてから、安らかな表情で眠りに落ちた。