予定調和の日々

※長編とは別設定です




憎々しいほどに晴れ渡った青天も、今は夕に暮れつつあった。

それほど長くはない階段を一息に駆け上がって屋上への扉を開けると、気温に反した涼しい風が髪を掠めていった。
一度深呼吸した永野は、申し訳程度に立てられている低い塀に肘をついて寄りかかり、すっかり見慣れてしまった景色を眺める。
遠くそびえるサイロを視界に納めながら、再び深く息を吸った。
首元に手をやり、少し躊躇った後ネクタイの締め付けを僅かに緩めた。

「…ふう」

訓練漬けで火照った体もここに居れば徐々に落ち着いてくる。
夏の空気の中、時折思い出したように吹く清風がこの場所を心地良いものに変えているようだった。

暇を見つけてはここへ来て、一人物思いに耽るのが最近の永野の日課だった。
考えるのは取り留めのない事ばかりだが、こうして毎日気持ちに整理を付けながら気を鎮めるのも悪くはなかった。
この島に来てから既に二ヶ月が経ち、自分が以前とは大分変わった事に気が付いたのはつい最近のことだ。
きっと周囲の影響がそれだけ多大だったのだろう。
それが良いことなのか悪い事なのかはまだ分からないけれど。

「─今はさぼりの時間かい?」

声に驚き肩を跳ねさせると、隣にやってきた石塚が声を立てずに笑った。
むっとした顔で顔を逸らす永野を茶化すようにたしなめる。

「ごめん、悪気はないんだ」
「…良いんですか。こんな所で油を売って」
「いや、まぁ…でも、ここに来れば永野に会えると思って」

そういってのほほんと笑みを向ける石塚に頬を染めた永野をまた石塚がからかう。そして逆上した永野が怒鳴り返す。
「あなたと言う人は~」と、常套句と化しつつある文句から始まり、結局最後は石塚に言いくるめられ、はぐらかされて終わる。
そんなやりとりを飽きず繰り返す日々がどれだけ続いたろうか。
永野は言い合いの末、肩で息を繰り返しながら思った。

「…そんなこと言わずにさ。今日も家に来てくれると有り難いんだけどなあ…」
「それで上手く言ったつもりですか!?そんなこと言ってまた楽してご飯を作ってもらおうって魂胆でしょう!」
「だって永野の作るご飯は美味しいから」
「…それは良かったですね」

そろそろ言い返す言葉も尽き、渋々と言った様子で引き下がる永野。
それを横目で見た石塚もそれ以上何も言うことなく視線を永野から外し、連なる山が日に照らされて燃えるように朱に染まっていくのを眺めていた。
ひぐらしの声が、暮れゆく空に幾重にも響き渡る。

「永野」
「…なんですか」

ぶっきらぼうに言葉を返す永野に向き合う石塚。
不意に強い風が吹き抜け、小さく声を漏らした永野は煽られる短い髪を押さえる。

「──…なのかな」
「え?…すみません、良く聞こえ─」

言い終わる前に、強く前方へ引かれつんのめる。
はっとして顔を上げれば、薄く瞼を持ち上げた石塚が極近距離でじっと永野を見詰めている。
…首が絞まって苦しい。
あからさまに不審そうな顔を向ける永野に困ったような笑みを向けながら、石塚は更に掴んだネクタイを締め上げ顔を寄せた。

「い、石塚さん…苦し…」
「目、閉じてて」

互いの額を付け合わせ、呟く。
その一言がどれだけ自分に絶対的な圧力を持っているのか、分かってやっているのだからこの人はたちが悪い。
咄嗟に制止しようと口を開けた永野の言葉を遮るように、石塚は薄い唇を重ね合わせた。
驚いて目を見開く永野が、先程の言葉を思い出して目を瞑る。
空いたもう片方の手が後頭部に回り、髪を鷲掴む感触に永野は眉を顰めた。
汗ばんだ手で握り拳を作り、耐えるようにじっとそれが終わるのを待つ。
身を固くする永野だったが、不意に離れた唇が耳元に移動したのを見て反射的に仰け反り無意味にも距離を取った。

「…嫌なら逃げてもいいんだぞ?」

勿論、決して逃れることはできないと分かっていた。
そして自分に逃げる心算もなければ、その動機もないことも。

「そんなこと…あなたが許さないでしょう?」
「良く分かったね」

永野は良い子だ、と言って頭を撫でる手。
無抵抗を良いことにしつこく撫で回す石塚に、若干むっとした顔を作った永野が石塚の脇をすり抜けて行こうとするも、腕を捕まれる。

「どこに行くのかな?」
「っ…もう、知りません!休憩は終わりです!離して下さい!」
「今この場を離れることは許さない。これは命令だ」
「…職権乱用です!それに今逃げてもいいって言ったじゃないですか!失礼します!!」
「それはそれ、これはこれだ」

そのまま腕の中に押し込められ、ため息を吐く永野。
ずけずけと言い放った、あの嬉々とした笑顔に戦意を削がれたとも言えなくもない。
それにしても、

「…理不尽だ……」
「それでもいいさ。永野が傍に居てくれればね」

また、そんなことを言ってこの人は自分を困らせるのだ。
…そしてそれに付き合う自分も相当な酔狂だ。

「…欲求不満なのかな」
「何か言いましたか?」
「いや、明日も朝から永野の顔を見られると思うと嬉しくてね」
「…好きにして下さい」

心底疲れ切った表情の永野が重々しく肩を落とすのを、石塚は愉快そうに眺めていた。
熱い空気、熱い日差しの中感じる体温は妙に心地良い。

8月も半ば、この島と別れを告げる日も近い。
夏の終わりは、それと同時に今一番近いところにいる人との別れを意味する。
このままずっと、なんてムシの良いことは考えてはいない。
しかし、時間の許す限り傍にいたいと思うのも、もしかしたらムシの良い考えなのかも知れない。

「石塚さん…暑いですけど…」
「すまない」

言葉では謝るも、石塚は腕を放そうとはしなかった。
苦しい程にきつく回すその腕は抱きしめている、というよりも抱きついている、と言った方がもっともな気がした。

「石塚さん」
「…すまない」
「何があったか知りませんけど…どこにも行きませんから、離して下さい」
「……」

力一杯石塚の胸板を押し返し、睨み付けるような表情でじっと目を見据える永野。
一瞬呆けたような顔をした石塚だったが、薄く笑みを作るとぱっと腕を離し永野の肩を軽く押した。勢い余って後ろによろける永野。

「…分かったよ。行っておいで、後で迎えに行くから」
「……絶対ですよ!?貴方が言ったんですからね!」

耳まで真っ赤にしながらそう言って永野は逃げるように駆け去っていった。
相当恥ずかしかったんだろうなあ、と含み笑いをしながら赤い日差しの差す空を見上げる。
もしかしたら、永野の顔も夕日に染まって赤く見えたのかも知れない。
気まぐれに起こる涼風に吹かれながら、石塚は日が落ちるまで、ずっとその場で見慣れた景色を眺めていた。
重奏を奏でるひぐらしの鳴き声も、夜の帳と共に少しずつ聞こえなくなっていった。